ポートロワイヤルの戦い_(1710年)
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ポートロワイヤルの戦い
アン女王戦争

ポートロワイヤル史跡(カナダ国定史跡)の入り口

1710年10月5日 - 1710年10月13日
場所アカディア(現ノバスコシア)、ポートロワイヤル
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯44度42分40秒 西経65度36分36秒 / 北緯44.71111度 西経65.61000度 / 44.71111; -65.61000座標: 北緯44度42分40秒 西経65度36分36秒 / 北緯44.71111度 西経65.61000度 / 44.71111; -65.61000
結果イギリスの勝利

衝突した勢力
グレートブリテン王国
イロコイ連邦フランス王国
ミクマク
アベナキ族
指揮官
フランシス・ニコルソンダニエル・オージェ・ド・スーベルカス
戦力
約2000300以下
被害者数
不明不明
.mw-parser-output .locmap .od{position:absolute}.mw-parser-output .locmap .id{position:absolute;line-height:0}.mw-parser-output .locmap .l0{font-size:0;position:absolute}.mw-parser-output .locmap .pv{line-height:110%;position:absolute;text-align:center}.mw-parser-output .locmap .pl{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:right}.mw-parser-output .locmap .pr{line-height:110%;position:absolute;top:-0.75em;text-align:left}.mw-parser-output .locmap .pv>div{display:inline;padding:1px}.mw-parser-output .locmap .pl>div{display:inline;padding:1px;float:right}.mw-parser-output .locmap .pr>div{display:inline;padding:1px;float:left}ポートロワイヤル アカディア(ノバスコシア)

ポートロワイヤルの戦い(英:Battle of Port Royal)またはアカディア征服は、イギリスの正規兵、およびイギリス入植地の総督フランシス・ニコルソンの指揮下にある現地兵と、ダニエル・ドージェ・ド・スーベルカスの指揮下にあるアカディア駐屯兵との間で、アカディアの首都ポート・ロワイヤルで、1710年10月5日から13日まで行われた戦いである[1]。イギリスはこの包囲戦に勝利し、アカディアの半島部分を自国のものとして、ノバスコシアと改名した。これは、イギリスが、初めてフランスの入植地域を、自らの支配下におさめた戦いでもあった[2]。フランスの降伏の後、イギリスは首都の要塞を占領し、ヨーロッパの戦争で要塞を奪った時のような、華々しい儀式を展開した[3]

この戦いは、アン女王戦争期間中に、イギリスが3度アカディアの首都を奪おうと試みて、やっと達成されたものであり、その後の50年間に重大な意味を持たせることになった。また、1711年から1713年にかけての、条約による交渉は、新たな問題が作りだされるもとともなった。ノバスコシアに入植地を新しく建てることで、アカディアに留まり続けようとするアカディア人とミクマク[4] の将来に関して、大きな問題点が生じたのである[5]

アカディア征服は、カナダという国家の歴史の根幹をなすものでもあった。イギリスによるルイブール、そしてケベックの征服の先駆となり、北アメリカのフランスの権力をことごとく終結させる、その前兆となった[6]
アカディアをめぐる争い

ポートロワイヤルは、フランス人がカナダに初めて入植を始めた1604年ごろから、アカディア・フランス入植地の首都であり、その結果、18世紀には、イングランドとフランスの入植者との間での争いの舞台となった。1613年にはサムエル・アーゴール率いるイングランド軍の襲撃により破壊されたが、結局再建された[7]。1690年には、マサチューセッツ湾植民地により、ポートロワイヤルを奪われたものの、ライスワイク条約でフランスに返還された[8]

1702年スペイン継承戦争の勃発で、両国の入植者たちは、再び戦闘への準備を始めた。アカディアの総督であるジャック=フランソワ・ド・モンベトン・ド・ブロイヤンは、戦争が起きるのを見越して、1701年に、石と土の要塞を築きはじめ、1704年には、その要塞はおおかた完成していた[9]1704年2月の、フランスによるマサチューセッツ辺境のディアフィールド奇襲が起き、ボストンのイギリス系入植民は、その年の5月にアカディア襲撃を計画した[10]ベンジャミン・チャーチに率いられたマサチューセッツの入植者たちは、アカディアのグランプレと他の町をも襲撃した。チャーチが、アカディアへの襲撃をしたかどうかについて、イングランドとフランスの話は食い違った。チャーチ自身の説明によれば、アカディアの港に停泊してから、襲撃を考えたが、結局は中止を決めたと述べた。フランス側は、小さな襲撃があったと述べた[11]1713年、ユトレヒト条約以降の北アメリカ東海岸。
A‐ポートロワイヤル(アナポリス)、B‐ボストンそしてCがカスコ湾。イギリスがポートロワイヤルを自国領としたことで、東海岸の制海権が大きくなった。

1706年に、ダニエル・オージェ・ド・スーベルカスがアカディアの総督になった。スーベルカスはイングランドに対して攻撃的であり、先住民の、ニューイングランドへの襲撃を奨励した。また、ポートロワイヤルを拠点に、イングランド植民地への輸送船を私掠することも勧めた。私掠はかなりの効果を上げた。グランドバンクのイングランドの漁船団は、1702年から1707年までの間に80パーセントも減った。そして、沿岸部のイングランドの入植地は襲撃された[12]ジョセフ・ダドリー総督

ボストンのイングランド商人は、ポートロワイヤルと長く取引があり、うち一部は、戦争が起こった後も、違法に活動を続けていた[13] 。しかし、交易活動が戦争により痛手を受け、他の商人たちが違法行動に声を上げ始め、フランスと先住民の襲撃に手を打てない当局に対して暴動が発生した[14][15]。マサチューセッツ湾入植地の総督であるジョセフ・ダドリーは、イギリス本国に、支援を何度も要求したが、その支援は本国には何ら見返りのないものだった。ダドレーはついに、違法商業活動の共犯という非難を受け流すため、自主的に行動を起こすことにした[13][16]。1707年の春、ダドレーはポートロワイヤルへの遠征隊を組織した[15]。ポートロワイヤルの奪還目的の遠征で、数の上では優勢だったが、遠征も、非難をかわすことも失敗に終わった。その理由はさまざまである[17]
ポートロワイヤルへの遠征アン女王

その後何年間か、フランスは、ポートロワイヤルに大きな支援はできなかった。一方でイギリスは、北アメリカで起こるであろう戦争のために、兵士を増員し、より組織化された軍を派遣した。スコットランド出身で、入植地とのつながりもある実業家サムエル・ベッチが、1708年ロンドンに出向いて、ヌーベルフランスを征服するための軍事的援助を、アン女王に陳情した[18]


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