「ポートランド (オレゴン州)」とは異なります。
ポートランド市
City of Portland
Portland du Maine
オールド・ポート地区のエクスチェンジ・ストリート
愛称 : 森の市(The Forest City)
標語 : "Resurgam (ラテン語で"私は再び立ち上がる")"
位置
メイン州内の位置
座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯43度40分02秒 西経70度12分26秒 / 北緯43.66722度 西経70.20722度 / 43.66722; -70.20722
ポートランド(Portland)は、アメリカ合衆国メイン州南西部に位置する港湾都市。ボストンの北北東約170kmに位置する。カンバーランド郡の郡庁所在地で、最大の都市である。人口は6万8408人(2020年)。ポートランド都市圏には州の総人口の4割にあたる約50万人が居住している。
ポートランドはメイン州の文化・社会・経済の中心地である。ニューイングランドではボストン港に次ぐ規模の海港を抱える同市は漁業と商業を主産業としている。また歴史的な街並みを残し、レストランやバーが集中する港沿いのオールド・ポート地区(Old Port)を中心とした観光業も盛んである。エリザベス岬に近いポートランド・ヘッドライト灯台も人気のある観光地となっている。一方、ポートランドのダウンタウンにはヘンリー・ワズワース・ロングフェローの生家をはじめとする博物館・美術館が建ち並び、市内には複数の大学がキャンパスを構え、メイン州で最大の公立学区を有するなど、文化都市としての側面も有している。
市内および周辺には緑が多く、市の別名をフォレスト・シティ(Forest City、森の街)という。市章は灰の中から飛び立つ不死鳥を表しており、市の標語Resurgam(ラテン語、「私は再び立ち上がる」の意味)と共に、4度にわたる大火から立ち上がったポートランドを意味している[2]。
アメリカ西海岸のオレゴン州の大都市ポートランドの市名は、このメイン州のポートランドに由来している[3]。 ポートランドは初めそこに住んでいた先住民族によってマチゴンヌ(Machigonne)と呼ばれていた。1632年にイギリスが漁業と貿易の植民地として植民開始し、カスコ(Casco)と名前を変えた。1658年に再度町の名前が変えられファルマス(Falmouth)となった。コングレス・ストリートの端がイースタン・プロムナードと交差する場所に碑が建っているが、これにはポートランドの4つの名前が記されている。 1675年、フィリップ王戦争の時にワンパノアグ族によって村は破壊し尽くされた。再建された村も数年後に同じ種族によって破壊された。1775年10月18日、アメリカ独立戦争の時にヘンリー・モワット船長指揮するイギリス艦隊の砲撃で、またもや村は破壊された。[4] 独立戦争の後、ザ・ネック(The Neck)と呼ばれるファルマスの一地区が商業港として発展し、海運拠点として急速に成長した。1786年、ファルマスの市民がファルマス・ネックに別の町を造り、ポートランド(Portland)と名付けた。ポートランドの経済は1807年の通商禁止法(イギリスとの通商を禁じる法)と1812年の米英戦争で大きく阻害された。1820年にメイン州がマサチューセッツ州から分離独立する形でアメリカ合衆国の州に昇格し、ポートランドはその州都に選ばれた。この時までに通商禁止法と米英戦争は終わっており、ポートランドの経済も回復し始めた。1832年、州都はオーガスタに移された。 ポートランドは1851年のメイン法に関わる反対運動の中心となり、1855年6月2日のポートランド・ラム暴動で頂点に達した。 1866年7月4日、独立記念日の祭りの間に発した火が町の商業ビルの大半と教会の半分と数百の家を焼き尽くした。1万人以上の人の家が失われた。この大火の後、ポートランドは煉瓦で再建され、ビクトリア様式の外観を呈するようになった。市民は町のウエスタン・プロムナード沿いにビクトリア調の大きな邸宅を建て始めた。ファースト・ナショナル・バンク(1910年頃) ポートランドの建築の質と様式は、この町で働いた19世紀に良く知られた建築家達の仕事を継承したことに大きく依存している。アレクサンダー・パリス (1780-1852)は1800年頃町に到着し、多くのフェデラル様式の建物を残してポートランドを去った。そのうちの幾つかは1866年の大火で失われた。チャールズ・A・アレクサンダー (1822-1882) はビクトリア様式の多くの邸宅の設計を行った。ヘンリー・ロー (1810-1870) はゴシック様式の小さな家が得意だった。ジョージ・M・ハーディング (1827-1910) はポートランドのオールドポートにある多くの商業ビルや華美な住居用ビルを設計した。世紀の変わり目には、フレデリック・A・トンプソン (1857-1906) がポートランドの多くの住居用ビルを設計した。 しかし、ウエスターン・プロムナード地区で断然影響力があり、また多作の建築家は、フランシス・ファセット (1823-1906) とジョン・カルヴィン・スティーブンス (1855-1940) であった。スティーブンスはメイン・ジェネラル・ビル(現在はメイン医療会館の一翼)やウィリストン・ウエスト教会、幾つかの学校や自宅の建築を依頼された。1880年代初期から1930年代にかけて、スティーブンスは彼の経歴の初期には人気があったクィーン・アン様式やロマネスク様式からミッション復古様式まで、広い範囲で仕事をしたが、シングル様式や植民地復古様式を始めたことで、特に良く知られるようになった。その作品はウエスタン・プロムナード地区に豊富にある。 ポートランドの再建時に人気のあったビクトリア様式の建築は、市の行政の一部に特に保存を強く推進する者がいて、状態も良く保存されている。1982年、この地区は国定歴史地区の指定を受けた。現代の生活意識調査では、アメリカでも最も住みやすい小都市の一つに挙げられている。 1970年代にサウス・ポートランドの郊外に屋内ショッピングセンターであるメイン・モールが造られ、ポートランドの中心街に大きな影響を与えた。百貨店や大手フランチャイズの店舗がそれまでのコングレス・ストリートやフリー・ストリートから近郊のモールに移転したり、廃業した。このことは町の特徴を守る上では恩恵となった(チェーンストアはあまり人気がない)が、多くの空き屋が目立つようにもなった。住民は中心部ではもはや手に入らない商品やサービスを町の外で求めるようになった。 1990年代半ばよりメイン芸術大学が周りから学生を集め、コングレス・ストリートの歴史ある港湾施設を主要な機能として回復させ、中心街の活性化に寄与してきた。この大学は、一時市の公立図書館として使われていたバクスター・ビルディングをコンピュータ開発室と撮影スタジオに変えて維持している。 ポートランドは現在建設ブームにある。ただし、1980年代の建設ブームよりも統率され保守的なものではある。近年、コングレス・ストリートには、メイン芸術大学の拡張や、オフィスビルの高級マンションへの転換に伴って、多くの店舗や飲食店が戻ってくるようになった。市の歴史あるベイサイド地区やムンジョイ・ヒル地区の麓にあるオーシャン・ゲートウェイの港湾近辺で急速な開発が行われつつある。[5][6][7]
歴史
市庁舎(1910年頃)
市庁舎(1910年頃)から北東を望む
ウエスタン・プロムナード(1908年頃)
兵士の碑(1908年頃)