ポークチョップヒルの戦い
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ポークチョップヒルの戦い

1952年、米第45歩兵師団 のポークチョップヒルでの戦闘を描いた絵画

時1953年4月16日?18日 / 7月6日?11日
場所韓国 漣川郡北部
.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯38度14分29秒 東経127度1分10秒 / 北緯38.24139度 東経127.01944度 / 38.24139; 127.01944
結果4月の戦闘:国連軍の勝利
7月の戦闘:中国軍の勝利

衝突した勢力


 国際連合

 韓国

 アメリカ

 コロンビア

 エチオピア

 タイ
 中国
 朝鮮民主主義人民共和国
指揮官
ジェームズ・ヴァン・フリート
アーサー・トルドー 彭徳懐
鐘国楚
部隊
第7歩兵師団
ケブラ・ザバグナ
第21歩兵連隊[1] 第67師団 (7月の戦闘)
戦力
19,000 名20,000名 (国連軍推定)
6,800名 (7月の戦闘)
被害者数
米軍:
戦死:347名
負傷:1,036名
捕虜:9名国連軍推定:
戦死1,500 名
負傷4,000名
中国発表:
戦死:533名
負傷:1,242名

ポークチョップヒルの戦い (Battle of Pork Chop Hill) とは、朝鮮戦争最末期、すでに板門店で国連軍と中朝連合軍の休戦交渉中である1953年4月から7月の間に、二度に渡って繰り広げられた歩兵戦闘の総称である。中朝連合軍の死傷者は米兵の死傷者の数倍に上ったが、それでも戦略的にも戦術的にも価値の無い丘を巡って、多くの米兵が戦死したことで、米国内では戦闘の是非について多くの議論を巻き起こした。最初の戦闘では国連軍側が勝利し、2度目の戦闘は中朝連合軍が勝利した。

1度目の2日に渡る戦闘では米軍を主力とする国連軍は中朝連合軍を丘から撃退したが、2度目は5日間に渡り戦闘が繰り広げられ、両軍ともさらに多くの部隊をつぎ込み、最終的に国連軍が主戦線の後方に撤退した。
背景

ポークチョップヒルとは、高さ300メートルの丘の形が上から見て米国の家庭料理であるポークチョップ(英語版)(豚ロースの垂直カットのステーキ)に似ていたため[2]、この名前が付けられた。

丘は1951年10月に米第8騎兵連隊が攻略した[3]。その後、持ち主を変え1952年5月に再び、米第180歩兵連隊I中隊と、米第2歩兵師団傘下のタイ陸軍第21歩兵連隊第1大隊が奪取した。

1952年12月29日からは、国連軍の主防衛線のうち米第7歩兵師団の受け持ち戦区の中となり、敵側に露出したいくつかの丘の一つであった。この丘の前哨陣地は、土嚢を積み上げた複数の掩蔽壕が塹壕で繋がっており、それぞれを中隊や小隊単位で防衛していた。

米第7歩兵師団に相対する中朝連合軍側は、中国人民志願軍第47軍・第141師団と、第23軍・第67師団である。これらの師団は夜戦や山岳戦闘、待ち伏せ攻撃などの経験が豊富な兵士で編成され、訓練が行き届いた部隊であった。この中国の2つの軍(米側の軍団規模)は、元々は、どちらも中国の朝鮮派遣副司令官であるケ華将軍が率いる第13野戦軍の一部であった[4]

この戦区で対峙する両軍の兵力は概ね同規模と言えた。米第7歩兵師団(師団長:アーサー・トルドー少将)は11個歩兵大隊(指揮下のコロンビア軍やエチオピア軍の各1個大隊を含む)と1個機甲大隊、6個砲兵大隊を擁していた。一方、中朝連合軍側は12個歩兵大隊、10個砲兵大隊と1個戦車大隊で構成されていた。

1952年の始めから、こうした軍事作戦は、国連軍、中朝連合軍の双方共に休戦協定の条件交渉を有利に進めるための政治的な手段として用いてきた。ポークチョップヒルの戦いが起きる数日前の4月20日に、疾病捕虜を交換したリトルスイッチ作戦が行われたが、中朝軍側は、この捕虜交換合意は、必ずしも戦闘を止めることでは無いとの意思を示す目的もあった[5]
最初の戦闘 4月16日?4月18日
前哨陣地の陥落

1953年3月23日の夜、中国人民志願軍第141師団第423連隊は、ポークチョップヒルの近傍にあるオールドバルディ(266高地)の前哨陣地を奇襲攻撃し、この丘を巡る5度目の戦闘で布陣していたアルベルト・ルッツ・ノボア中佐率いる米第31歩兵連隊指揮下のコロンビア軍大隊B中隊を撃退した。連隊長のウィリアム・B・カーン大佐は、同軍C中隊に対し指揮官が反対したにもかかわらずB中隊の増援として送り込んだ。コロンビア軍の2個中隊は入れ替わる形で2日間に渡って反撃を行ったが、米第31連隊がさらなる増援を送ることができず、両中隊共、激しく消耗し、結果として丘を再度奪取することができず、国連軍司令部はこの地域からの撤退を決めた。この戦闘の結果、ポークチョップヒルは三方向を敵側に晒すことになり、この戦闘に続き3週間の間、中国軍は夜間偵察を繰り返した。

4月16日の深夜、ポークチョップヒルに布陣していた第31歩兵連隊E中隊(トーマス・U・ハロルド中尉)、に対して突如、激しい砲撃が浴びせられ続いて中国人民志願軍201連隊が突撃し、一部の孤立した陣地を除いて丘は蹂躙された。この夜は米第7歩兵師団の戦区全域に渡り攻撃が行われた[6]
米第31歩兵連隊の反撃

戦線後方で予備部隊であった米31連隊のK中隊(中隊長:ジョセフ・G・クレモンス中尉)とL中隊(中隊長:フォレスト・J・クリテンドン中尉)は反撃を命じられ、攻撃開始時間を4月17日0430時とされた。夜明けまでに丘の頂上部にある主塹壕まで到達したが、両部隊の死傷率は50%に達しL中隊の半数は隣接する200高地の前哨陣地から前進できない状況となった。そのため、この突撃の戦術指揮官のクレモンス中尉は増援部隊の要請を行った。すぐに戦力消耗のため第31連隊の指揮下に入っていた米第17歩兵連隊のG中隊(指揮官のウォルター・B・ラッセルJr中尉は、クレモンス中尉の義理の兄弟)が前線に投入され、午前8時30分にはK中隊と連携した戦闘を開始した。しかし、前線の3中隊には中国志願軍の砲弾が絶え間なく降り注いだため、動きがとれず塹壕に釘付けとなってしまった。

この間、司令部と前線部隊の情報伝達の混乱により、3個中隊のうち、他の2個中隊の損害を把握しないまま、15:00時に激しい損害を受けていたラッセルのG中隊のみに撤退命令を出してしまった。実際には、この時点で残りの2個中隊に関しても、二つの部隊を併せて25名の生存者しかいなかった。

このとき、師団長のトルドー少将はカーン大佐に第17連隊の第1大隊と第2大隊の戦術指揮を任せると共に、255高地上の新たな中隊を増援として送り込むように命じた。
米第17歩兵連隊の反撃

カーン大佐は、第17歩兵連隊のF中隊(中隊長:モンロー・D・キング大尉)を前線に投入し、中隊は2130時に激しい砲撃の中、丘を登り始め、2200時には頂上の塹壕に達したが、この間、19名が戦死した。


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