ポヴァティ・ロウ(Poverty Row, 「貧民街」の意)は、アメリカ合衆国カリフォルニア州にある映画都市ハリウッドにおいて、サイレント映画時代の末期から1950年代半ばまで、小規模でほとんどが短命に終わったBムーヴィを製作する映画スタジオを指して使用された、スラング的用語である。「ポヴァティ・ロウ」と呼ばれた小スタジオは、多くが現在のハリウッドのゴウワー街に面しているか近隣に存在したが、本用語は、具体的な所在地を特定することが重要ではなく、これら小規模な階層をなすスタジオ群が製作したローバジェット作品のために、一種の包括的な比喩であった。 ポヴァティ・ロウ的作品群とは、その多くが、西部劇や、レオ・ゴーシー ポヴァティ・ロウ・スタジオのうちのあるものは、現れたかと思ったら数本のリリースで消え去り、あるものは、圧倒的にスケールの違いはあるとはいえ、多かれ少なかれ、MGMやワーナー・ブラザース、あるいはパラマウント映画のようなメジャー・フィルム・スタジオ
特徴的作品群
スタジオ
もっとも成功し、かつ長く生きながらえた下層企業は、固定資産(熱心な観客には映画から映画へ使い回されていることがわかるようなたくさんのセット)をもち、長期契約のキャストとクルーをもち、より小規模の企業よりも変化に富む作品を生み出すことができた。 ポヴァティ・ロウにおける主要スタジオには、リパブリック・ピクチャーズがある。同社は、ハーバート・J・イエーツ
主要スタジオ
リパブリック社は、1930年代に、連続ものの短篇映画とジーン・オートリー出演の西部劇をリリースすることで始まった。偶発的なスーパースターであるジョン・ウェインの成功に偶然に乗っかれたことや、1953年(昭和28年)のウェインのヒット作『静かなる男』のようなより野心的な企画に乗り出す以前の話である。
モノグラム・ピクチャーズは、すぐにリパブリック社を離れ、次の10年間で、人気のスウィング・バンドを主演に迎えた学園ミュージカルから、チャールズ・ディケンズの小説『オリヴァー・ツイスト』といった古典の映画化やケイ・フランシスの引退作品まで、すべてを生み出した。 もっとも小規模なスタジオには、ティファニー・ピクチャーズ
泡沫スタジオ
ときには、従来の会社に失敗した同じプロデューサーが、新しい会社を始めることもあった。ハリー・S・ウェッブとバーナード・B・レイのリライアブル・ピクチャーズとメトロポリタン・ピクチャーズがそれに当たる。
アスター・ピクチャーズやリアラート・ピクチャーズのような組織は、製作を開始する前に、他社から旧作の再映権を購入するところから始めた。 1948年(昭和23年)のパラマウント訴訟の判決とテレビジョン放送の開始は、スタジオ・システムの崩壊と、ポヴァティ・ロウ・スタジオが供給する満席作品を熱望する独立系映画館からは離れた、チェーンシアターの配給網の制限を生み、ハリウッドの現象としての「ポヴァティ・ロウ」の衰退と完全な消滅の原因となった。 五大メジャーリトル・スリーポヴァティ・ロウ主要四社
衰退
他社比較
MGMユナイテッド・アーティスツグランド・ナショナル・フィルム
パラマウント映画コロムビア映画リパブリック・ピクチャーズ
20世紀フォックスユニヴァーサル・ピクチャーズモノグラム・ピクチャーズ
ワーナー・ブラザースプロデューサーズ・リリーシング・コーポレーション
RKO
関連事項
ゴウワー街 (Gower Street (Hollywood))
レオ・ゴーシー (Leo Gorcey)
バワリー・ボーイズ (The Bowery Boys)
ミスター・モト (Mr. Moto)
チャーリー・チャン (Charlie Chan)
シドニー・トーラー (Sidney Toler)
メジャー・フィルム・スタジオ (Major film studio)
ハーバート・J・イエーツ (Herbert J. Yates)
マスコット・ピクチャーズ (Mascot Pictures Corporation)
リバティ・フィルムズ (Liberty Films)
マジェスティック・フィルムズ (Majestic Films)
チェスターフィールド・モーション・ピクチャーズ (Chesterfield Motion Pictures Corporation)
インヴィンシブル・ピクチャーズ (Invincible Pictures)
コンソリデイテッド・フィルム・インダストリーズ (Consolidated Film Industries)