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歴史的なポンメルンの地図(17世紀)。 北のバルト海に面する。中央部を南から北へ流れるオーデル川は1945年以降ドイツとポーランドの国境線となっている。現在のポメラニア。黄色い線の中が歴史的なポンメルンの範囲。主要都市としてシュチェチン(Szczecin)とシュトラールズント(Stralsund)がある。ヴィスワ川岸のグダニスク
ポメラニア(ラテン語、英語: Pomerania, Pomorania)または、ポンメルン(ドイツ語: Pommern)、ポモージェ(ポーランド語: Pomorze, ポメラニア語(カシューブ語): Pomorze, Pomorsko)は、ドイツ北東部からポーランド北西部にかけて広がる地域。伝統的、あるいは地勢的には北にバルト海、東西をオーデル川とヴィスワ川にはさまれた地域である。ポメラニアの東端部の、ヴィスワ川を挟んでプロシアに接する地方はポメレリア(Pomerelia, ドイツ語: Pommerellen)と呼ばれる(中心都市はグダニスク)。
イヌの品種ポメラニアンは、ポメラニア地方が原産地である。また、世界の琥珀の90パーセントが同地方の海岸で産出されている。
この地域は特に第一次世界大戦と第二次世界大戦に影響され、国境と人口は激しく変動し、1945年以降のドイツ人追放によって戦前のほとんどの住民は去ったか退去させられた。 現ポーランド側は、南はノテチ川(ネッツェ川)、西はオドラ川(オーデル川)までがポーランド領ポモージェ地方で、東西240km、南北140km、面積はおよそ33,600平方kmにおよぶ。西ポモージェ県、クヤヴィ・ポモージェ県、ポモージェ県の3つの県に分けられている。 現ドイツ側はメクレンブルク=フォアポンメルン州の東部にあたる。 土地が痩せていて農業に適さず、古くから海岸より奥は人がほとんど住んでいなかった。 鉄器時代、ゲルマン民族、バルト人とバルトVeneti民族が定住し、中世にはスラブ民族(西スラヴ人)とヴァイキングが居住していた[1]。 中世以降、いわゆる東方植民により低地ドイツ系の住民が増えていった。 10世紀には、神聖ローマ帝国、デンマークが北西部に領地拡大し、ポーランドのピャスト朝は南東部を征服した[2]。紋章 古くからザクセン公国、神聖ローマ帝国、デンマーク、ドイツ騎士団、ポーランド王国、スウェーデンなど周辺諸国との間で争奪されてきた。ポモージェのほとんどは低地で、海岸の砂地の他はマツ、ブナ、ナラ、カバなどの原生林や沼沢地が多くを占めている。農業に適さない土地であり、東方のプロイセンのほうが豊かだったため、中世の植民者たちも海岸地帯以外にはほとんど足を踏み入れることはなかった。 12世紀、ポメラニアはドイツ人司教バンベルクのオットー
地理
歴史
紀元前500年ころから民族移動時代までゲルマン系の部族(ゴート族、ルギ族
中世?近代
14世紀初頭、ドイツ騎士団がポメラニアの征服に成功しドイツ騎士団国となり、スラブ人地域もドイツ人の定住が進んだ[4]。
1466年、騎士団との対戦後、ポーランドの王領プロシアとなった[5]。
1534年、ポメラニア公国のドイツ人は、プロテスタントの宗教改革を受け改宗した[6]。
17世紀以降、都市化の進んだフォアポンメルン地区は、スウェーデンによって支配された。(1653年のシュテッティン条約でブランデンブルク=プロイセンと分割)