ポンペウ・ファブラ大学
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}この名前は、スペイン語圏の人名慣習に従っています。第一姓(父方の)はファブラ、第二姓(母方の)はポッチです。

プンペウ・ファブラ
1930年のファブラ
生誕1868年2月20日
スペイン王国 バルセロナ県グラシア(英語版)
死没1948年12月25日(1948-12-25)(80歳)
フランス ピレネー=オリアンタル県プラード
国籍 スペイン
民族カタルーニャ人
職業文法学者言語学者
テンプレートを表示

プンペウ・ファブラ・ポッチ(カタルーニャ語: Pompeu Fabra i Poch, 1868年2月20日 ? 1948年12月25日)は、スペインバルセロナ県グラシア(英語版)出身の文法学者言語学者カタルーニャ人。正書法、文法書、辞書を完成させ[1]、現代カタルーニャ語の規範化にもっとも大きな功績があった人物であるとされる[2]カスティーリャ語(スペイン語)風にポンペウ・ファブラとも表記される。
経歴バルセロナのレセップス広場にあるファブラの記念碑
幼少期

1868年、プンペウ・ファブラはカタルーニャ地方バルセロナ郊外のグラシア(英語版)[3]に生まれた[4][5]。父親はジュゼップ・ファブラ・イ・ロカ、母親はカロリーナ・ポッチ・イ・マルティであり、両親にはプンペウを合わせて13人とも16人ともいわれる子供がいたが、コレラ、はしか、ジフテリアなどでの小児死亡率が高い時代であり、成人したのはプンペウを含めて3人だけだった[6]。1876年、ファブラ家はバルセロナ市街地に引っ越し、ファブラはバルセロナで初等教育を受けた[4]。幼少時代から言語に対して鋭い感性を持っており、兵隊人形で遊ぶ時には兵隊の制服によって言語を使い分けることを好んだ[6]。しばしばバルセロナ港まで足を運んでは、外国人水夫が話す言葉に耳を傾けている[6]
青年期

当時のバルセロナでは口語のカタルーニャ語と文語のカスティーリャ語(スペイン語)を使い分けるのが一般的であり、幼少のファブラは高祖父の会計帳簿がカスティーリャ語ではなくカタルーニャ語で書かれていることに驚いたというエピソードが知られている[4]。15歳までカタルーニャ語で読み書きしたことはなかったが、甥に手紙を書く際にスペイン語の書き言葉に疑問を感じ、カタルーニャ語の本や新聞を読むようになった[7]。父親はプンペウがカタルーニャ語で出した手紙を見て驚き、父親自身も私的な手紙はカタルーニャ語で書くようになったという[8]。15歳になるとバルセロナにある工科学校に進学し、エンジニアへの道を歩む一方で、個人的に文法学や言語学の勉強も行った[4]。その過程でカタルーニャ語の口語と文語の大きな差異に驚き、17歳の時に約100ページのカタルーニャ語文法書の試論を書きあげた[9]。1889年には工科学校での学業を修了したが、鉱山への就職を辞退してバルセロナに残り、補修・受験用の教室で学生を指導した[4]
文法・正書法・辞書の作成カタルーニャ研究院

ファブラはかなり若い頃からカタルーニャ語研究に身を捧げた[10]。友人に連れられて訪れたバルセロナのアタネウ(文化クラブ)では、多くの会員が言文一致を目指すファブラの理念に賛同し、『ラベンス』(前進)という雑誌を発行してカタルーニャ語の新しい正書法や文法の普及を目指した[11]。ファブラ自身は劇作家のヘンリック・イプセンや詩人のモーリス・メーテルリンクの作品をカタルーニャ語に翻訳し、知識人を通じてこれらの正書法や文法の社会への浸透を試みた[11]

1891年には自身初の文法書として『現代カタルーニャ語文法試論』を著した[4]。この文法書はカタルーニャ語の口語を初めて記述した文法書である[4]。1902年にはバスク地方ビスカヤ県ビルバオにあるビルバオ工科学校(現バスク大学)の化学教師職に就いたが[10]、この時期にも何冊ものカタルーニャ語の文法書を執筆している。著作家で出版者のジャウマ・マッソー・イ・トレンツ(カタルーニャ語版)、著名な法曹で著作家のジュアキン・カザス・イ・カルボー(カタルーニャ語版)とともに、1904年にはTractat d'ortografia catalanaを発表した。1906年には第1回カタルーニャ語国際会議で画期的な提言を行い[4]、カタルーニャ語言語学の分野で一定の評価を得た。

1907年にはインスティテュ・ダストゥディス・カタランス(スペイン語版)(カタルーニャ研究院)が設立され、1910年にはこの研究院に言語部門が開設された[12]。ファブラ、言語学者のアントニ・マリーア・アルクベー(スペイン語版)、詩人のジュアン・マラガイ、劇作家のアンジェル・ギマラーなどが委員を務め、カタルーニャ語の規範辞書を編纂することで合意に達した[13]。1911年にはバルセロナ大学にカタルーニャ語講座が設置され、ファブラが教授に就任している[14]


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:63 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef