ポンペイ
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この項目では、イタリアの古代都市とその遺跡、その都市を題材とした作品について説明しています。その他の用法については「ポンペイ (曖昧さ回避)」をご覧ください。

ボンベイ」とは異なります。
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出典は列挙するだけでなく、脚注などを用いてどの記述の情報源であるかを明記してください。記事の信頼性向上にご協力をお願いいたします。(2020年8月)
ポンペイの想像図(79年の噴火前。現代より山が高い)現在のポンペイの遺跡。写真中央の建物は劇場跡。背景のヴェスヴィオは79年以降も噴火を繰り返したため、山頂周辺が吹き飛び、低くなっている。

座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯40度45分3.6秒 東経14度29分13.2秒 / 北緯40.751000度 東経14.487000度 / 40.751000; 14.487000ポンペイ(: Pompeii、: Pompei)は、イタリアナポリ近郊、ヴェスヴィオ山のふもとにあった古代都市。西暦79年のヴェスヴィオ噴火(英語版)で発生した火砕流によって地中に埋もれたことで知られ、その遺跡は「ポンペイ、ヘルクラネウム及びトッレ・アンヌンツィアータの遺跡地域」の主要部分として、ユネスコ世界遺産に登録されている。@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important}

アボンダンツァ通り

ポンペイの街路(の遺跡)。車道と歩道が分離され、歩行者の安全に配慮されている。飛石状のものは横断歩道で、馬車荷車の車輪は通し、人は雨天でも足を水溜りで濡らさず道を渡れる。

野外闘技場の遺跡。背景はヴェスヴィオ山。


歴史ポンペイの拡張史。
赤 - 最古の街(サムニウム期)
青 - 最初の拡張。紀元前4世紀
緑 - 2度目の拡張
黄 - ローマ帝国による拡張。紀元前89年より。
初期

イタリア先住のオスキ人(英語版)によって集落が形成された。紀元前7世紀頃はサルノ川(英語版)の河口付近の丘に集落があった。その後紀元前526年からエトルリア人に占領されたが、ポンペイ市民はイタリア南部に居住していたギリシャ人と同盟を組み、紀元前474年クマエの海戦で支配から脱した。ギリシャ人はその後ナポリ湾を支配した。紀元前5世紀後半からサムニウム人の侵攻が始まった。
サムニウム期

この節の加筆が望まれています。 (2022年2月)

紀元前424年にはサムニウム人(あるいは「サムニテ人」「サムナイト人」en:Samnites)に征服されることとなった。サムニウム人はまた、カンパニア全体を支配した。この時代、ローマがポンペイを征服したという説があったが、現在この説を裏付けるものはない。

カンパニアの諸都市が同盟市戦争と呼ばれる戦争をローマに対して起こすと、ポンペイも反ローマ側に加わった。
ローマ期

紀元前89年ルキウス・コルネリウス・スッラによって町は征服されポンペイは周辺のカンパニア諸都市とともにローマ(ローマ帝国)の植民都市となった。ローマの支配下に入った後のポンペイの正式名は「Colonia Cornelia Veneria Pompeianorum」(ポンペイ人によるウェヌス女神に献呈されたコルネリウスの植民市)となった。ポンペイは港に届いたローマへの荷物を近くのアッピア街道に運ぶための重要な拠点となり、以後は商業都市として栄えた。

ポンペイは商業が盛んな港湾都市であった。整備された大きな港があり、海洋都市でもあった(ポンペイ周辺で火山活動の地殻変動が続いたことで、現在の遺跡の海抜は上昇し、水辺から遠ざかった状態になっている)。またぶどうの産地であり、ワインを運ぶための壺が多数出土されていることから、主な産業ワイン醸造だったことが窺える。碁盤の目状に通りがあり、大きな通りは石により舗装されていた。市の中心には広場もあり、かなり計画的に設計された都市であることも分かっている。

街の守護神は、美と恋愛の女神ウェヌスであった。娼婦の館も発掘され男女の交わりを描いた壁画が多く出土したので、現代ではポンペイは「快楽の都市」と呼ばれることもある。古代ローマ時代は性的におおらかな時代であり、ポンペイに限らず古代ローマの商業都市には商人向け(旅商人向け)の娼婦館のような施設は多かったという。




娼館に残っていた壁画

ポンペイのナルキッソスの絵

西暦79年のヴェスヴィオ火山噴火79年のヴェスヴィオ噴火による降下火山灰の被害地区(黒色部分)。火砕流による被害地域よりもはるかに広い。

噴火したのは西暦79年であることは間違いないが、その正確な日付については一部に議論がありはする(以下の解説では、一般に用いられている日付で解説する)。

西暦62年2月5日に発生したポンペイ地震により、ポンペイや他のカンパニア諸都市は大きな被害を受けた。再建作業はされたが、不完全な状態で西暦79年8月24日以降(噴火日については後述)の午後1時頃にヴェスヴィオ火山が大噴火し[1]、一昼夜に渡って火山灰が降り続けた。

翌8月25日(噴火から約12時間後)の噴火末期に火砕流が発生し、ポンペイ市は一瞬にして完全に地中に埋まった。降灰はその後も続いた。軍人でもあった博物学者ガイウス・プリニウス・セクンドゥス(大プリニウス)は、ポンペイの市民を救助するために船で急行したが、煙(有毒火山ガス?)に巻かれて死んだことが甥のガイウス・プリニウス・カエキリウス・セクンドゥス(小プリニウス)による当時の記述から知られている。

当時、唯一の信頼できる記録は、小プリニウスが歴史家タキトゥスに宛てた手紙である。これによると、大プリニウスはヴェスヴィオ火山の山頂の火口付近から、の木(イタリアカサマツ)のような形の暗い雲が山の斜面を急速に下り、海にまで雪崩れ込んだのを見たと記録している。火口から海までを覆ったこの雲は、現在では火砕流として知られる。


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