ポンバル侯爵およびオエイラス伯爵セバスティアン・ジョゼ・デ・カルヴァーリョ・イ・メロ(ポルトガル語: Sebastiao Jose de Carvalho e Melo, primeiro Conde de Oeiras e Marques de Pombal、1699年5月13日 - 1782年5月8日)は、近世ポルトガル王国の政治家。国王ジョゼ1世の全面的信任を得て長年独裁権力を振るい、啓蒙的専制を行った。 セバスティアン・デ・カルヴァーリョ・イ・メロはリスボンの小貴族マヌエル・デ・カルヴァーリョ・イ・アタイデの息子として生まれた。コインブラ大学に学び、しばらく軍に勤務した後にリスボンへ戻り、アルコス・セバスティアン伯爵の姪であるテレサ・デ・メンドーサ・イ・アルマダと結婚した。しかし、妻の実家は身分違いだと反対しており、何かと差し障りが多かったので、ポンバル
宰相への道
啓蒙主義ポンバル侯爵、ルイ=ミシェル・ヴァン・ローとクロード・ジョセフ・ヴェルネ作、1766年。
大使在任中に、産業革命が進む英国の経済的成功に強烈な印象を受けていたカルヴァーリョは、1755年に宰相に就任すると、同様な経済政策をポルトガルでも採用、強力な権限を持つ商業評議会を設立して、財政の改革や工業化を推進した。またインドのポルトガル植民地における奴隷制を廃止し、陸海軍を再編、コインブラ大学も再建した。「ポンバルの改革」によって、それまで卑しいとされてきたポルトガルのブルジョアジーの地位は大きく向上する。大地震後に推進されたポンバリーナ様式の耐震構造
同年11月1日、リスボン大地震が発生し、津波と火災のためリスボンの町は壊滅的な打撃を受けた。カルヴァーリョは間一髪の差で生き残り、再建に乗り出した。聖職者の反対を押し切って市内の遺体を沖合に運んで水葬するというカルヴァーリョの策により、幸い疫病は発生せず、カルヴァーリョの指揮により市民が瓦礫撤去と再建に動員され、リスボンの町は碁盤目状に区画され、新興ブルジョアジーが町の中心部に進出した。この時再建されたリスボン市街(バイシャ・ポンバリーナ)の建築様式をポンバル様式という。 この成功に気を良くしたジョゼ1世は、さらに独裁的な権力をカルヴァーリョに与え、自分は政務に関心を示さず、狩猟や馬術に没頭していた。だが、カルヴァーリョの権力が拡大すると、これを快く思わない貴族たちの反感が高まり、1758年にジョゼ1世暗殺未遂事件(Tavora affair カルヴァーリョは経済的発展のためにユダヤ系ポルトガル人に対する制度的な迫害を撤回しようとしていたが、イエズス会にとっては認めがたい方針であり、審問所の持つ権限を妨害に用いていた。
専制支配
審問会