ポンバル侯爵
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閣下
ポンバル侯爵
KC FC(英語版)


王国総務大臣
任期
1750年8月2日 ? 1777年3月4日
君主ジョゼ1世
前任者ガスパール・デ・モコソ・イ・シルヴァ
後任者アイレス・デ・ザ・イ・メロ
外務大臣(英語版)および戦争大臣(英語版)
任期
1750年8月2日 ? 1756年5月6日
君主ジョゼ1世
前任者アゼヴェド・コウチーニョ
後任者ルイシュ・ダ・クーニャ・マヌエル

個人情報
生誕1699年5月13日
ポルトガル王国リスボン
死没1782年5月8日(1782-05-08)(82歳没)
ポルトガル王国、ポンバル(英語版)
配偶者テレサ・ルイサ・デ・メンドーサ・イ・アルマダ
レオノール・エルネスタ・デ・ダウン
職業政治家
宗教キリスト教カトリック
署名

ポンバル侯爵およびオエイラス伯爵セバスティアン・ジョゼ・デ・カルヴァーリョ・イ・メロ(ポルトガル語: Sebastiao Jose de Carvalho e Melo, primeiro Conde de Oeiras e Marques de Pombal、1699年5月13日 - 1782年5月8日)は、近世ポルトガル王国の政治家。国王ジョゼ1世の全面的信任を得て長年独裁権力を振るい、啓蒙的専制を行った。
宰相への道

セバスティアン・デ・カルヴァーリョ・イ・メロはリスボンの小貴族マヌエル・デ・カルヴァーリョ・イ・アタイデの息子として生まれた。コインブラ大学に学び、しばらく軍に勤務した後にリスボンへ戻り、アルコス・セバスティアン伯爵の姪であるテレサ・デ・メンドーサ・イ・アルマダと結婚した。しかし、妻の実家は身分違いだと反対しており、何かと差し障りが多かったので、ポンバル近くの領地に引きこもった。1738年ロンドン駐在ポルトガル大使に任命され、1745年からはウィーン駐在ポルトガル大使に移った。ポルトガル王妃マリア・アナオーストリアハプスブルク家の出身で、カルバーリョに何かと目をかけ、彼の最初の妻が亡くなると、レオノール・エルネスタ・デ・ダウンと結婚させた。しかし、国王ジョアン5世は彼を嫌い、1749年にウィーンから召喚した。翌1750年、ジョアン5世が死去すると、新王ジョゼ1世はカルヴァーリョを好み、王太后の了解を得て外務大臣に任命した。やがて王はカルヴァーリョを全面的に信頼するようになり、国政を委ねていった。
啓蒙主義ポンバル侯爵、ルイ=ミシェル・ヴァン・ロークロード・ジョセフ・ヴェルネ作、1766年。

大使在任中に、産業革命が進む英国の経済的成功に強烈な印象を受けていたカルヴァーリョは、1755年に宰相に就任すると、同様な経済政策をポルトガルでも採用、強力な権限を持つ商業評議会を設立して、財政の改革や工業化を推進した。またインドのポルトガル植民地における奴隷制を廃止し、陸海軍を再編、コインブラ大学も再建した。「ポンバルの改革」によって、それまで卑しいとされてきたポルトガルのブルジョアジーの地位は大きく向上する。大地震後に推進されたポンバリーナ様式の耐震構造

同年11月1日リスボン大地震が発生し、津波と火災のためリスボンの町は壊滅的な打撃を受けた。カルヴァーリョは間一髪の差で生き残り、再建に乗り出した。聖職者の反対を押し切って市内の遺体を沖合に運んで水葬するというカルヴァーリョの策により、幸い疫病は発生せず、カルヴァーリョの指揮により市民が瓦礫撤去と再建に動員され、リスボンの町は碁盤目状に区画され、新興ブルジョアジーが町の中心部に進出した。この時再建されたリスボン市街(バイシャ・ポンバリーナ)の建築様式をポンバル様式という。
専制支配

この成功に気を良くしたジョゼ1世は、さらに独裁的な権力をカルヴァーリョに与え、自分は政務に関心を示さず、狩猟や馬術に没頭していた。だが、カルヴァーリョの権力が拡大すると、これを快く思わない貴族たちの反感が高まり、1758年にジョゼ1世暗殺未遂事件(Tavora affair)が起こった。カルヴァーリョは大貴族に対する大弾圧に乗り出し、1,000人以上を逮捕、被告は拷問によって自白を強いられた。ポルトガル最大の貴族アヴェイロ公爵 (pt) は四肢切断のうえ火刑に処せられた。次にタヴォラ侯爵 (pt) も車裂きの刑に処され、主だった貴族は処刑、投獄、追放を余儀なくされた。国王の非嫡出の兄弟姉妹であっても例外にはならず、カルヴァーリョに敵視され修道院幽閉される者もいた。イエズス会も陰謀に加わったとみなされ、翌年にはポルトガルから追放され、その巨大な財産は没収された。イエズス会はブラジルの内陸部に広大な宣教地を有し、同時に豊かな農園と都市部の不動産を握っていたことからも、ブラジルを国家の富と個人的利益の源泉とみなしていたカルヴァーリョにとって排除の対象だった。1768年には、国家から独立的な権力を行使していた異端審問所を国家に従属する国王裁判所に再編し、その長官に弟のパウロ・カルヴァーリョを任命している。
審問会

カルヴァーリョは経済的発展のためにユダヤ系ポルトガル人に対する制度的な迫害を撤回しようとしていたが、イエズス会にとっては認めがたい方針であり、審問所の持つ権限を妨害に用いていた。


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