ポンティアック戦争
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ポンティアック戦争

1763年4月27日、イギリスに対する決起を呼びかけるポンティアックの様子を描いた白人の想像画
戦争:インディアン戦争
年月日:1763年 - 1766年
場所:五大湖地方
結果:軍事的には手詰まり。インディアンはイギリスの権威に譲歩したが、イギリスも政策を変えることを強いられた。
交戦勢力
イギリス軍インディアン
指導者・指揮官
ジェフリー・アマースト
ヘンリー・ブーケットオブワンディヤグ
カヤホスタ
戦力
兵士3,000戦士3,500
損害
戦死した兵士450、
死亡または捕虜となった民間人2,000、
退去した民間人4,000戦死した戦士200、
他に戦闘または病気による死者の可能性あり
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ポンティアック戦争(ポンティアックせんそう、: Pontiac's Rebellion)は、フレンチ・インディアン戦争/七年戦争 (1754-1763)の終結後、イギリスの五大湖地方支配に不満を抱いたインディアンが侵略者であるイギリス白人に対して1763年に戦いを挑んだ「インディアン戦争」である。
目次

1 概要

2 紛争の名前

3 戦争の原因

3.1 戦争に関わった民族

3.2 アマーストの政策

3.3 土地と信仰


4 開戦

4.1 戦争の計画

4.2 デトロイト砦の包囲戦

4.3 奪取された小さな砦

4.4 ピット砦の包囲戦

4.5 ブッシーランおよびデビルズホール


5 インディアンへの八つ当たり

6 イギリスの反応、1764年-1766年

6.1 ナイアガラ条約

6.2 2つの遠征隊

6.3 ポンティアックとの条約


7 遺産

8 脚注

9 参考文献

10 外部リンク

概要

1763年5月、イギリス軍のジェフリー・アマーストが押し付けてきた民族浄化政策に対して、行く末に危惧を抱いたインディアンたちがイギリス軍の多くの砦や入植地を襲ったことから「ポンティアック戦争」は始まった。白人の8つの砦が破壊され、数百の入植者が殺されるか捕虜にされ、他にも多くの者がこの地域から逃げ出した。

五大湖地方からイギリス軍と白人入植者を追い出すために、多くの部族のインディアン戦士が立ち上がった。1764年、イギリス軍の遠征から次の2年間にわたる和平交渉が進み、敵対行動は収まった。インディアンたちはイギリス人を追い出すことができなかったが、この蜂起によってイギリス政府の占領政策を修正させることになった。

インディアン戦争は苛烈で、捕虜の殺害や、一般市民を攻撃目標にしたり、また他にも民間人への残虐行為が双方で見られた。今日でも知られている出来事としては、ピット砦のイギリス軍士官が天然痘の菌に汚染された毛布を贈り物にし、周辺のインディアンにこれを感染させたことである。紛争の冷酷残忍さはイギリス人入植者とインディアンの間の増幅する民族間対立の反映であった。イギリス政府は、入植者とインディアンの土地の間に境界を設定する1763年宣言を発して、これ以上民族間対立がひどくならないようにした。
紛争の名前

「ポンティアック戦争」という呼称は、多くの部族をとりまとめ、交渉の矢面に立ったオタワ族の酋長ポンティアックにちなんでいる。これ以外にも、ポンティアックの反乱、ポンティアックの蜂起など様々な呼び方がある。当初の戦争の名前は、「キヤスタとポンティアックの戦争」であった。キヤスタはグヤスタの別の綴り方であり、影響力のあるセネカ・ミンゴ族の酋長だった。[1]1851年のフランシス・パークマンによる「ポンティアックの謀略」が出版された後は、「謀略」という呼び方が広く知られるようになった。[2]パークマンの影響力ある本は1世紀近くの間の戦争に関する最も信頼のおける証言となり、今日でも出版されている。[3]

バークマンを始め、白人たちはインディアンの「酋長(チーフ)」を、「部族長」、あるいは「指導者」だと思い込んでいた。しかし実際には、インディアンの部族は合議制民主主義を基本としており、ある個人が部族をとりまとめたり、率いたりするような「首長」のようなものは存在しない。インディアンの酋長とは「調停者」、「世話役」、あるいは「奉仕者」であって[4]、ポンティアックやグヤスタが戦争を率いたわけではない。酋長は調停者として、白人との交渉の矢面に立たなければならなかった。白人はこれを見て、ポンティアックやグヤスタがこの戦争を率い、謀略を図り、扇動したと勝手に思い込んでこのような戦争名を付けたのである。

20世紀に入って、パークマンは戦争におけるポンティアックの影響度合いを誇張しており、それゆえに戦争にポンティアックの名前を付けるのは誤解を生むと指摘する歴史家が現れた。例えば、1988年にフランシス・ジェニングスは「フランシス・パークマンの曇った心では1人の野蛮な天才、オタワ族の酋長ポンティアックから辺境の策略が広がったので、それが「ポンティアックの謀略」となったが、ポンティアックは多くの部族を巻き込んだ反抗における一オタワ族の戦争指導者に過ぎなかった」と記した。[5]戦争の別の名前も提案されたが、一般の歴史家は最も汎く使われている「ポンティアック戦争」と呼び続けている。現代では、「ポンティアックの謀略」は稀に学者によって使われることがある。[6]

上述したようにインディアンの酋長は指導者ではないので、バークマンを批判しているジェニングスも根本的にインディアンの文化を誤解している。
戦争の原因貴方方はこの国をフランスから奪ったからその所有者だと思っている。しかし、フランスは何の権利も持っていなかった。だからこの国は我々インディアンのものだ。
(You think yourselves Masters of this Country, because you have taken it from the French, who, you know, had no Right to it, as it is the Property of us Indians.)ショーニー族のニムワ酋長の言葉
イギリスのジョージ・クローガンに対して。1768年
[7]

ポンティアック戦争の前の数十年間、フランスとイギリスはヨーロッパにおける一連の戦争に加わったが、その中には北アメリカの「フレンチ・インディアン戦争」も含まれていた。この戦争の中で最大のものは世界を巻き込んだ七年戦争であり、その結果、フランスは北アメリカのニュー・フランスをイギリスに割譲することになった。七年戦争の北アメリカ戦線は、アメリカ合衆国ではフレンチ・インディアン戦争と一般に呼ばれ、1760年にイギリスのジェフリー・アマースト将軍がフランス領のモントリオールを陥落させた後に終戦となった。[8]

イギリス軍は、以前フランス軍守備隊のいたオハイオ領土や五大湖地方の多くの砦を占領した。1763年のパリ条約で戦争が正式に終わる前でさえも、イギリス王室は広大に広がった北アメリカの領土を管理するために変化を与えようとし始めた。フランスは長い間インディアンとの同盟を続けていたが、イギリスの戦後のやり方は基本的にインディアンを征服された民族として扱うことだった。[9]敗れたフランスと同盟を結んでいたインディアンはすぐに、イギリスの占領と勝者として押し付けてきた新しい政策に不満を抱くようになった。
戦争に関わった民族

ポンティアック戦争に関わった民族は、1763年のパリ条約まではフランスが所有権を主張していたpays d'en haut(上の国)として知られるニュー・フランスの曖昧に定義された地域の居住者達であった。


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