Poitiers
ポワチエ(Poitiers)またはポワティエは、フランス西部に位置するコミューンで、ヴィエンヌ県の県庁所在地である。
ヴィエンヌ県で最も人口が多いコミューンである。周辺のコミューンも含めて人口261,795人の都市圏を形成する[1]。
地理ポワチエを流れるクラン川とジュベール橋
ポワチエのまちは、西へ向かえばアルモリカ山塊、東へ向かえば中央高地という、スイユ・ド・ポワチエ(seuil de Poitiers)と呼ばれる低地の交差路にある。したがって、パリ盆地からアキテーヌ盆地の間を容易に通行できる地ということになる。ポワチエはパリの南西340kmにあり、リモージュとは130km、ナントとは180km、ボルドーとは220kmの距離にある。このように、ポワチエは商業においても軍事においても有利な位置にある。
ポワチエの位置は、ボワヴル川とクラン川の谷の間にある広いスパテュラ状の突端で、標高は50mほどである。河川は深い谷を刻んでいる。この突端は、トランシェ(切り越しを意味する)と呼ばれる細い通路で平野とつながっている。トランシェの名称は、この通路を溝が切断することと、ポワチエを他の地方から孤立させることに由来する。2つの河川は、ジュベール橋とサン=シプリアン橋のある浅瀬で交差する。
ポワチエの市街は川の両岸に広がっており、特に、大学キャンパスや病院地区、商業地区、住宅地のある東、フュテュロスコープ・テクノポールのある北部に向かって伸びている。 ポワチエは3度の大きな戦闘にその名を残している。 カエサルが到達したとき、ケルトのオッピドゥムであるLemonumまたはLimonumとして、既にこの地にまちがあった。lemo-またはlimo-はガリア語が起源で、ニレ(フランス語でorme)を意味していた。ニレを意味するラテン語ulmusと同じ、印欧語起源である。まちは1世紀にローマを模範として都市が変えられ、大きな円形闘技場(1857年に残っていた円形闘技場は破壊されている)、浴場、少なくとも3つの水道橋を備えていた。2世紀にまちは、アクイタニアの州都となることができた。 4世紀、高さ6mある厚い壁で2.5kmにわたってポワチエは囲まれていた。同じ頃、聖イラリウスがまちをキリスト教化し、この時期からサン=ジャン洗礼堂の基礎が築かれた。都市は最終的にポワチエの名を採用した。これはガリアの部族ピクトン人の人々に関連する。 中世のポワチエは、軍事防衛の地で、フランスの権力中枢から地理的に遠かった。4世紀以来カトリック教会の司教座が置かれ、またポワトゥー伯爵の本拠地であり、代々のポワトゥー伯は公国内でのアキテーヌとポワトゥーの主要な派閥を形成していた。 9世紀、グラン=リュ、大通りの名が憲章に記された。それはヨーロッパに残る通りの名称としては最古のものである。 コミューンをつくろうとする最初の試みは、近隣のまちや村がリーグをつくろうとし、1138年に住民が自治を宣言してからだった[2]。まちは早速フランス王によって動きを止められた。アキテーヌ女公アリエノール・ダキテーヌは、突端全体を囲むように、12世紀に6000mの長さの新しい壁を築かせている。 ヘンリー2世の王子たちが父親に反逆していた頃、ポワチエのまちはイングランドに忠実であった。1175年に自治体憲章を得ることができたからだった[3] · [4]。憲章は1199年にアリエノール・ダキテーヌが、そしてその後のフランス王たちが承認している。アリエノールもアキテーヌ公として働き、新たな市場をつくらせた。アリエノールが1204年に死去すると、まちは同年のうちにフィリップ2世が獲得した。 サンティアゴ・デ・コンポステーラの巡礼路がポワチエを通過しており、まちは多くの巡礼者を迎え入れ、彼らは聖ラドゴンドや聖イラリウスの遺物に信仰を捧げるためポワチエに滞在した。 14世紀、ポワチエはジャン2世の三男、ベリー公爵ジャン1世の領地だった。彼はポワチエのかつての伯爵たちが築いた中世の宮殿(ダンジョンや庭園を含む)をさらに飾り立てた。同様に彼は三角形の古い城を美しく直した。この城は写本『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』の7月の項に描かれている。 1360年のブレティニー条約によって、ポワトゥーの都市はイングランド領となった。百年戦争の暗い時代、1418年には王国議会が置かれた。ポワチエは、フランス王国軍の指揮を行う以前のジャンヌ・ダルクが1429年に様子を観察している。王家から好まれたことと、首都パリを逃れてきた大勢の知識人の存在によって、ポワチエに1431年に大学が創設された。大学は15世紀末で約4000人の学生を抱えていた。 ポワチエのまちはルネサンス時代に眠りに落ちた。実際には、古い砦の浅瀬に橋が架けられたりするなど、わずかに変化は見られた。 ジョアシャン・デュ・ベレー、ピエール・ド・ロンサールといった詩人たちは、パリへ向かう前にポワチエ大学で学んでいた。 ポワチエは行政機能の繁栄に向かっていった。王立裁判所、司教座、修道院、そしてポワトゥー統監の管理である。1750年から1784年にかけ、ブロサック子爵ポール・ド・ラ・ブルドネイエはフランス式庭園を作り上げた(現在はポワチエ公園となっている)。また、アリエノーヌ・ダキテーヌが作らせた城壁が壊され、壁のあった場所には大通りがつくられた。 アンシャン・レジーム時代には、非常に階級間対立があったにも関わらず、しばしば王が税を賦課すると、共通の敵に対して一時的な連帯が生まれた時期もあった。
歴史
507年 - ポワチエの戦いまたはヴイエの戦いは、ポワチエ北西部でクローヴィス1世が西ゴート王アラリック2世に勝利した。この勝利で、フランク王国はロワール渓谷からピレネー山脈までの間の領域全体の征服が可能となった。
732年 - トゥール・ポワティエ間の戦い。ポワチエ北部に接するヴヌイユ=シュル=ヴィエンヌ
1356年 - ポワティエの戦い。ポワチエ南部ヌアイエ=モーペルテュイにて起きた戦闘。エドワード黒太子率いるイングランド軍がジャン2世率いるフランス軍に勝利した。
古代
中世『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』に描かれたポワチエの城
16世紀から革命までシャルル・ド・ゴール広場と古い町並み