民主カンプチアの政治家ポル・ポト???? ??
生年月日 (1925-05-19) 1925年5月19日
出生地 フランス領インドシナ連邦
カンボジア王国、コンポントム州、プレク・スバウヴ
没年月日 (1998-04-15) 1998年4月15日(72歳没)
死没地 カンボジア、ウドンメンチェイ州、アンロンベン郡
ポル・ポト(クメール語: ???? ??, ラテン文字転写: Pol Pot、1925年5月19日[1][2] - 1998年4月15日)は、カンボジアの政治家、共産主義者、独裁者。
民主カンプチア首相・カンボジア共産党中央委員会書記長を務め、クメール・ルージュの精神的指導者であった。カンボジアの国内で知識人や旧体制の指導者への迫害や虐殺などを主導したことで知られる。
本名はサロット・サル(クメール語: ????? ?, ラテン文字転写: Saloth Sar)だが、ポル・ポトは自身がサロット・サルと同一人物であると公式に認めたことはない[3]。しかし、サロット・サルの兄弟のうちポル・ポト政権下を生き延びた3人の1人ロット・スオン(Roth Suong)は[4]、「ポル・ポト=サロット・サル」と述べている[5]。通称は「一の同志」、「コード87」、「バン・ポー(年長者)」などがある[6]。 サロット・サル(以下「ポル・ポト」という。)は、フランス領インドシナのプレク・スバウヴ(現在のカンボジア王国コンポントム州)で生まれ育った。父の名はペン・サロット(Phen Saloth)、母はソク・ネム(Sok Nem)。 ペン・サロットは12ヘクタールの土地(9ヘクタールの水田と3ヘクタールの農園)と水牛6頭を所有し、2人の息子と養子にとった甥たちなど約20人で水田を耕作していた。使用人は雇っておらず、収穫期は村人同士で手伝って作業した。収穫量は年平均で籾6トンで、20以上の家族を養える量だった[7]。これはカンボジア全体のレベルから見ると十分富裕な自作農の規模だが、ポル・ポトの兄ロット・スオンの説明では、村には50から100ヘクタールを所有する農家もあり、その中では中規模の自作農だったという[8]。 ポル・ポトの生家は王宮と関係のある家系で、ペン・サロットの姉ネアク・チェン(Neak Cheng)が王宮で働き始めたことから始まるようである。特に、チェンの娘ルク・クン・メアク(Luk Khun Meak)が王宮舞踊団の踊り手になり、その後シソワット・モニヴォン王の側室になったことで王宮との関係は強まった[9]。 ポル・ポトの生年や幼少期の生い立ちの説明は資料や文献によって異なる。 1年後に奨学金を得て宗主国フランスの首都パリへ留学、グランゼコールの一つであるフランス国立通信工学校(エコール・フランセーズ・ド・ラディオエレクトリシテ、現フランス国立情報工学校
生涯
生い立ち
幼少期
生年
誕生日については、1928年5月19日と1925年5月19日の2つの説がある。デイヴィッド・チャンドラーは著書[10]の中で1928年説をとっている。一方、B.Kiernanは自身の著書[3]では1925年説をとっている[11]。ただし、同著者の別の著書[12]では、1928年のままになっている。
兄弟の人数
文献[5]によれば、ポル・ポトは9人兄妹の8番目として生まれたことになっている。一方、B.Kiernanの著書内[4][13]では、7人の子供のうちの末っ子として生まれたと書かれている。
幼少期の生活
幼少期に関しては、「彼は当時の慣例にしたがって幼時に6年間プノンペンの寺院で暮らし、リセから中級専門学校の電気機械科に進んだのちパリへ留学し」と文献[5]の中で書かれている。これは、1978年3月にユーゴスラビアのジャーナリストが初めて民主カンプチアに入国しポル・ポトにインタビューした際、以下のポル・ポトの発言をそのまま書いたもののようである。「私は、ある農民の一家の出だ。子供の時分は、両親と一緒に住んで農作業の手伝いをしていた。だがその後、伝統に従って、読み書きを習うため寺院で生活した。寺で6年間過ごし、2年間は僧侶になっていた。」[14]同文献[5]は、1981年のロット・スオンとのインタビューの内容を記したことになっているが、1980年7月9日にプノンペンで同氏にインタビューしたB.Kiernanの記述とは異なっている。文献[4]によると、サロット・サルは水田で農作業をしたことはなく、6歳[4]の時にプノンペンへ送られ、タマヨット派の寺院で1年間見習いをしたあと、8歳[4]の時にカトリックの私立エリート校エコール・ミシェに入学し、そこで6年間過ごした。入学には、ポル・ポトのいとこで、モニボン王の側室の1人だったルク・クン・メアクの助力があった。プノンペンでは、ロット・スオン、チア・サミー(Chea Samy、ロット・スオンの妻)、ルク・クン・メアクと一緒にトラサク・ペム通り(Trasak Paem Street)の大きな家で生活していた[15]。14歳[4]の時にプノンペンの高校の入学試験に失敗したため、コンポンチャムのクメール人市場の中にあったノロドム・シハヌーク高校に入学。以後6年そこで過ごす。1948年始めにプノンペンへ戻り、郊外にあるルッセイ・ケオ技術学校Russey Keo Technical Schoolで寮生活をしながら木工を学んだ[16]。
フランス留学から帰国