ポルノ映画
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ポルノ映画(ポルノえいが、英語:Porn(ographic) film, Porn(ographic) video など)は、映像媒体のポルノグラフィ。世界的には「成人映画」とほぼ同義であり、ポルノビデオもこれに含むが、日本においてはより狭い意味で使われることが多い。性行為を収めた映画である。
世界のポルノ映画
前段階カメラマン、ヨハン・シュウォーツァーと彼のサターン・フィルム・カンパニーによる1906年頃のオーストリアのエロティック映画『Am Sklavenmarkt』から

ポルノ映画(エロティック映画)の歴史は、映画自体とほとんど同じくらい古い。1893年にキネトスコープが発売されると、1895年にはキスシーンを撮影した『ザ・キス』が公開(制作:エジソンスタジオ)[1]。ミュージカル「未亡人ジョーンズ」の一場面を撮影したものであったが、カトリック教会から不謹慎だと抗議を受け公開中止に追い込まれた[1]

現存する最も古い、エロティックなシーンが含まれている映画は1896年11月に上映されたフランスの『Le Coucher de la Mariee 』(舞踏会のあとの入浴[1])である。現在では保存状態が悪かったため、推定全長7分のうち2分ほどしか観ることができないが、新婚初夜の女性が男性が楽しみにするベッドの前で服を脱いでいくというストーリーである。完全なヌードシーンセックスシーンは確認できない。当時は、ベリーダンスの腰フリシーン(Fatima's Coochie-Coochie Dance、1896年)が検閲され、キスシーン(M・アーウィンとJ・C・ライスの接吻、1896年)が猥褻と非難されるような時代であった。初期は、途中(肉襦袢)までの脱衣シーン、セクシーなダンスシーン、ボディタイツになるシーンなどがエロティックと見なされていた。1906年にはオーストリアのSaturn-Filmが女性のフルヌードシーンがあからさまに含まれるエロティック映画『Am Sklavenmarkt 』を制作し、1911年に規制によって閉業するまで同様のエロティック映画を計52本制作している。
黎明期

パトリック・ロバートソンの『Film Facts 』によれば、「確実に年代を特定できる最も初期のポルノ映画は、『A L'Ecu d'Or ou la bonne auberge 』である」。この映画は1908年にフランスで製作された、宿屋の使用人の2人の女性と逢い引きの約束をする、疲れきった兵士の物語である。中にはあからさまなフェラチオ、クンニリングス、そしてセックスシーンが含まれている。ロバートソンは、アルゼンチンのポルノ映画『El Satario 』の方がより古い可能性がある点にも言及している。この映画は1907?1912年の何れかの時点で製作された。ロバートソンは「最も古い残存するポルノ映画は、アメリカのキンゼイ・コレクションに含まれている。」と記している。ある映画は、ポルノの慣習的な「お約束」がいかに早く確立されたかを証明している。1910年のドイツ映画『Am Abend 』について、ロバートソンは「この10分間の映画は、寝室で一人マスターベーションをする女性のシーンに始まり、彼女の男性とのセックスフェラチオアナルセックスのシーンへと進行していく。」と紹介している[2]。1915年アメリカの『フリー・ライド 』も残存する初期の例であり、二人の女性ヒッチハイカーが男性ドライバーと生々しく青姦する(女性の放尿シーンもある)というストーリーである。疑似ヌードからわずか10年でポルノ表現は進化し、ヨーロッパを中心に制作、世界各地に輸出されていった。日本でも1896年には輸入、上映されている[1]

ポルノ映画は1920年代のサイレント映画時代、広範囲にわたって、多くの場合売春宿で上映された。多数のポルノ映画が以降の数十年間に製作されたが、撮影と配布が秘密裏に行なわれた関係で、これらの詳細を知ることは通常は困難である。また、アメリカでは1934年に、性描写や暴力表現を制限するヘイズ・コードが制定され、一切の性的表現ができなくなった。1950年頃より以前に製作されたポルノ映画の多くは、永久に紛失したと考えられる。この時期の、主にアマチュアによって撮影され、非合法に流通していたアメリカのポルノ映画は「スタッグ・フィルム(男性向け映画)」または「ブルー・フィルム」、「スモーカー」と呼ばれる。
1950年代

戦後の大量消費社会の発展と8ミリ映画技術の進歩によって、ポルノ映画市場は拡大した。en:Harrison Marksは、グラマラス・ホーム・ムービーと呼ばれたソフトコアポルノ(セックスはなくヌードのモデルたちのイメージビデオ)を多数制作した。
1960年代から1970年代

1960年代、古い社会の体制や規範に対抗するカウンターカルチャームーブメントが盛んになり、性的描写に対する取り組み方が変化を見せ始めた。『私は好奇心の強い女[注 1]』(1969年)はきわどい性描写(ヌード、擬似セックス、勃起前のペニスへのキスシーンなど)が含まれていたが、通常の映画館で上映された。また、スウェーデン映画の『愛の言葉[注 2](Karlekens Sprak) 』(1969年)は法的な位置付けを曖昧にする擬似ドキュメンタリーとして製作され、規制にかからず上映された。

1961年にはen:Lasse Braunによるカラーのハードコアポルノ映画が制作され、6万を超えるアメリカ中ののぞき小屋などで上映された。彼の数々のハードコアポルノはヨーロッパやアメリカの各地で流通していた。また、1960年よりドリス・ウィッシュマンはセックスシーンはないソフトコアポルノシリーズやセクスプロイテーションを制作した。

1969年にはアンディ・ウォーホルがセックスシーンを含むエロティックアート映画『ブルー・ムービー』を発表した。この直後に、ポルノ映画製作者たちによってアメリカ・アダルト映画協会が設立された。こうして、アメリカではポルノの黄金時代を迎えた(この時期から家庭用エロビデオが普及する80年代までを指す)。

1969年、デンマークハードコアポルノを合法化した最初の国となった。直ぐに『Bordellet 』(1972年)、『Jomfruens tegn 』(1973年)などの劇場用長編セックスコメディ映画の製作が開始された。これらは一般の俳優が出演し、ハードコアシーンがあるにもかかわらず、通常「ポルノ映画」としては認識されていない。

1970年代に入ると、法規制の緩和により、アメリカ合衆国や他の多くの国々で「XXXレート(本格的ポルノと評価された)」映画の上映が許可され始めた。成人映画館が隆盛し、アダルトグッズショップでも上映ブースが設けられた。1972年3月に『ニコライとアレクサンドラ』のプロモーションで来日したアメリカの大映画プロデューサーサム・スピーゲルは、「人間の安っぽい本能に訴えるようなポルノ映画は大罪を犯している」と話した[3]。1970年代の有名なアメリカのハードコア映画としては『ディープ・スロート』(1972年)、『グリーンドア』(1972年)、『ミス・ジョーンズの背徳』(1973年)、ラドリー・メツガー監督の『ミスティ・ベートーベン』(1975年)、『デビー・ダズ・ダラス』(1978年)などが挙げられる。これらはフィルムで撮影され、映画館に配給された。ニューヨークでは、ジェラルド・ダミアーノ監督の『ディープ・スロート』が特に評判となり受け入れられた。そして「Porno chic(おしゃれポルノ)」という言葉が生み出され、文化的な趨勢として認められた。真面目な芸術作品としては、日本の大島渚監督の『愛のコリーダ』(1976年)があげられる。


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