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やノートページでの議論にご協力ください。アダルトグッズショップとは、アダルトグッズを中心に販売する店。「アダルトショップ」「ポルノショップ[1]」とも呼ばれる。東京のアダルトショップ アダルトグッズを考察するとき、最も重要かつ切り離せない部分は、その販売方法である。ここではアダルトショップ近代の歴史として「近代?インターネット誕生前夜」までの発展と移り変わりを解説する。 「大人のオモチャ屋」という呼称は、1964年東京オリンピック前(昭和30年代初頭/売春防止法と同時期)から使われるようになった。 街道沿いやターミナル駅周辺の裏道、温泉街や歓楽街などにひっそりと存在する店舗で、主に電池駆動式のバイブレーターや性交補助器具ほか、淫具や媚薬、ブルーフィルム(8ミリ投影機用エロ映画)や猥褻画、海外ポルノ雑誌やSM雑誌等を販売していた。 特に、昭和47年に誕生した「熊ん子」と、それに続く挿入型バイブの隆盛は広く好事家に受け入れられ、アダルトマーケットの拡大に大きく貢献した。 電気マッサージャーや媚薬類の取り扱いは薬事法による制約があったため、線引きの微妙な商品を扱うこの業界は、ポルノ規制とともに公安警察からの圧力も多く、どこの店主も非常に警戒心が強かった。 「大人のオモチャ屋」は全て外から中を覗けない造りで(風俗営業法による指導もあった)、客と店主あるいは客どうしでお互いの顔が見えないよう、店内を薄暗くする四ツ目屋以来の習慣もあったので、暗い店内に目つきの鋭い店主が睨みを利かすイメージは、繁華街にあろうとも「気軽さとは対極の雰囲気」を放っていて、入店するには屈強な男性ですら覚悟を決める必要に迫られる場所だった。 薄暗い店内に陳列された商品には使用法はもとより、価格表記さえ無いのが普通で、使用法の説明を求めたり商品を手に取ったりできる雰囲気とは程遠い状況下で、「値段は客を見て決める」「何も買わずには帰さない」といった無言の脅迫感に怯える、一種異様な空間だった。 また東京や大阪の比較的大きな店舗は、三流男性雑誌に広告を掲載して(二流雑誌までは掲載を認めなかった)通販も行っていた。 昭和40年代の後半頃から、世間にはヌードページを売りとしたグラフィカルなエロ系雑誌が蔓延するようになったが、流通経路と利益率の違いから出版社が発行する「エロ雑誌」は「大人のオモチャ屋」にはほとんど並ばなかったため、ビジュアル面での品揃えに関しては、街中の小型書店にさえ及ばない時代が長期間続いた。 この潮流を境に日本のポルノは、外人の裸から日本人の裸へ移行し、ポルノという言葉も風化してゆく。 一方、昭和53年頃から神田神保町を起点に発生した息の長い「ビニ本ブーム」は、日本中の繁華街に「ビニ本屋」を増殖させながら、その後の「レンタルアダルトビデオブーム」、「裏本ブーム」へと発展する過程において、一斉摘発や風営法による締め付けをくぐり抜けながら、既存の「大人のオモチャ屋」と新勢力の「ビニ本屋」を融合させる流れを生んでいった。 新製品に乏しかった大人のオモチャ業界は利幅が薄くも需要の多いビジュアル系商材を、薄利多売傾向が目立ってきたビニ本AV業界は利幅の魅力的なオモチャ系商材を、それぞれ取り込んで顧客の囲い込みに努めた結果、アダルトショップ入店時の「命がけ」的イメージは徐々に薄らいでいった。 2000年代までに都心部では一部ショップが店頭に雑貨を置くなどして路面店に進出。後述する女性客を意識し、猥雑さを取り払い明るい清潔な雰囲気に改装する店舗もある[2]。またアダルトグッズ制作会社による直営店(アンテナショップ)もオープンしている[3]。 さて、江戸時代後期の四ツ目屋から400年来脈々と続く「未成年お断り店舗」の長い歴史の中で、世間に最大のインパクトを与えたのは、1993年、 渋谷に突如誕生した「女性専門 アダルトショップ キュリウス」である。
アダルトショップ近代の歴史
戦後 ? 昭和の時代
他業種との融合大人のコンビニM'S(上野店、2020年)pop life department. m's(大人のデパート エムズ)秋葉原店(2011年)
ビル全フロアでコスプレ用品を含むアダルトグッズを扱う
女性市場の誕生
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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