ポルトガル君主一覧では、1139年のポルトガル王国の建国から1910年10月5日革命による王政の廃止とポルトガル第一共和政の成立に至るまでのポルトガルの君主について記述する。 ポルトガルでは約800年の間君主制がとられ、歴代の国王は「ポルトガル王」以外に様々な称号を保持、もしくは自称した。フェルナンド1世とアフォンソ5世の2人はカスティーリャ王国の王位を請求し、カスティーリャへの介入を試みた。16世紀のハプスブルク家(アブスブルゴ家)が勢力を拡大した時代、一時期はスペイン・ハプスブルク朝の君主がスペイン・ナポリ=シチリアの国王とポルトガル国王を兼ねていた。ブラガンサ王朝の君主はポルトガル王位のほかにブラジル王、ブラジル皇帝などの称号も保有していた。 1910年の王政打倒後、1919年1月19日に王党派が王政の復活を宣言して政府に反乱を起こしたが(北部王国
目次
1 概要
2 ボルゴーニャ家(1143年 - 1383年)
3 アヴィス家(1385年 - 1580年)
4 ハプスブルク家(1581年 - 1640年)
5 ブラガンサ家(1640年 - 1910年)
6 脚注
7 参考文献
8 関連項目
概要
歴代ポルトガル王はいずれも建国者のアフォンソ1世を祖先に持つが、しばしば直系の子孫が断絶した。ポルトガルには、以下の王朝が存在していた。 ボルゴーニャ家はポルトガル王国を創始した一族として知られている。ボルゴーニャ王朝の祖であるエンリケ・デ・ボルゴーニャ(アンリ・ド・ブルゴーニュ)はフランスのブルゴーニュ出身の有力貴族であり、カスティーリャ王国のアルフォンソ6世の求めに応じてイベリア半島に渡り、レコンキスタに参加した[3]。エンリケはカスティーリャ王国の封臣としてポルトゥカーレ伯領とコインブラ伯領を統治し[4]、ポルトガル独立の基礎が形成されていく[3]。エンリケの息子アフォンソ・エンリケス(アフォンソ1世)がポルトガルの独立を宣言した時、ボルゴーニャ家は一貴族から2世紀以上にわたってポルトガルを統治する王家へと転身する。 フェルナンド1世の死後に起きた後継者断絶の危機の後、フェルナンド1世の娘であるベアトリスがポルトガル女王となるが、彼女の夫であるカスティーリャ王フアン1世がポルトガル王位を請求した。ベアトリスをポルトガルの君主に含めるか否かについては、研究者の間で意見が分かれている[5][6]。 君主名生没年月日即位退位補足家系画像
ボルゴーニャ王朝(1143年 - 1383年)
アヴィス王朝(1385年 - 1580年)
スペイン・ハプスブルク王朝(フィリペ王朝)(1581年 - 1640年)
ブラガンサ王朝(1640年 - 1910年)
ブラガンサ=コブルゴ家(1853年 - 1910年)
ボルゴーニャ家(1143年 - 1383年)
アフォンソ1世
ポルトガル語: Afonso I
1109年 ?
1185年12月6日1139年7月25日1185年12月6日ポルトガル王国の建国者ボルゴーニャ家
サンシュ1世
植民王
ポルトガル語: Sancho I
1154年11月11日 ? 1212年3月26日1185年12月6日1212年3月26日アフォンソ1世の子ボルゴーニャ家
アフォンソ2世
肥満王[7]
ポルトガル語: Afonso II
1185年4月23日 ? 1223年3月25日1212年3月26日1223年3月25日サンシュ1世の子ボルゴーニャ家
サンシュ2世
ポルトガル語: Sancho II
1209年9月8日 ? 1248年1月4日1223年3月26日1247年12月4日アフォンソ2世の子ボルゴーニャ家
アフォンソ3世
ポルトガル語: Afonso III
1210年5月5日 ? 1279年2月16日1248年1月4日1279年2月16日アフォンソ2世の子ボルゴーニャ家
ディニス1世
農夫王
ポルトガル語: Dinis I
1261年10月9日 ? 1325年1月7日1279年2月6日1325年1月7日アフォンソ3世の子ボルゴーニャ家
アフォンソ4世
勇敢王
ポルトガル語: Afonso IV
1291年2月8日 ? 1357年5月28日1325年1月7日1357年5月28日ディニス1世の子ボルゴーニャ家
ペドロ1世
厳格王[8]
ポルトガル語: Pedro I
1320年4月19日 ? 1367年1月18日1357年5月8日1367年1月18日アフォンソ4世の子ボルゴーニャ家