ポルトガル共産党
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ポルトガル政党ポルトガル共産党
Partido Comunista Portugues(PCP)
ロゴ
党旗
書記長ジェロニモ・デ・ソウザ
成立年月日1921年3月6日
本部所在地 ポルトガル、リスボン
共和国議会4 / 230   (2%)(2022年3月11日)
党員・党友数60,484人[1](2012年)
政治的思想・立場共産主義
マルクス・レーニン主義[2]
左翼[3] - 極左[4]
機関紙『前進!』
『闘士』
シンボル
国際組織欧州統一左派・北方緑の左派同盟
公式サイト ⇒Partido Comunista Portugues
政党連合統一民主同盟(英語版)に参加
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ポルトガル共産党(ポルトガルきょうさんとう、英語:Portuguese Communist Party、ポルトガル語:Partido Comunista Portugues、略称:PCP)は、ポルトガル共産主義マルクス・レーニン主義政党1921年コミンテルンポルトガル支部として設立されたが、1926年クーデター後に非合法化され、サラザール独裁政権と対峙した。

1974年カーネーション革命以後は合法化され、主として労働者階級の支持を受けながら、新たな政治勢力として台頭することになる。1990年代社会主義国家の崩壊が相次ぐ中でも、依然として国内で隠然たる影響力を保持。とりわけリスボンセトゥーバルなど都市部のほか、アレンテージョやリバテージョといった農村地帯での支持が厚く、与党となっている自治体もある[5]

機関紙1931年創刊の『前進!』(Avante!)。青年組織のポルトガル共産党青年団は世界民主青年連盟加盟。欧州統一左派・北方緑の左派同盟に加盟しており、現在はジェロニモ・デ・ソウザが党首を務める。
党史
起源と結党

第一次世界大戦末期の1918年、ポルトガルが深刻な経済危機に見舞われる中、国内の労働者はストライキを通じて生活闘争を繰り広げ、その結果8時間労働制などを勝ち取るに至った[6]1919年9月には国内初の労働組合が結成、同年には1917年に発生したロシア革命に触発されポルトガルマルクス主義同盟(FMP)が発足する。ポルトガルマルクス主義同盟の目標は社会主義及び革命思想を鼓吹し、以って労働運動を組織することにあった[6]。結成後しばらくして、労働者の間に「革命的前衛党」を樹立する必要性を感じた同盟員は、コミンテルンの指示を仰ぎながらポルトガル共産党を結成する。1921年3月6日のことである。

ポルトガル共産党は欧州の他の共産主義政党とは異なり、社会民主主義或いは社会主義政党の分派から生まれたのではなく、アナルコサンディカリスムを源流とする[6]。リスボンに初めて党本部を構えると、結党から7ヵ月後には初の党機関紙『共産主義者』(O Comunista)が発行される[6]1923年11月、リスボンで開催した初の党大会でカルロス・ラテスを初代党首に選出。約100名の党員が参集したこの党大会では、ソビエト連邦との連帯や国内の他の社会主義勢力との共闘を表明した。また、当時国内で台頭しつつあったファシスト勢力に対しては、党や国家に対して脅威になりうるとの声明を出した[7]
党の非合法化

1926年5月28日に発生したクーデター以後、党が非合法化され地下活動を余儀なくされたほか、翌年には党本部も閉鎖。1929年、ベント・ゴンサルヴェスの下で細胞のネットワークとして党が再建される[8]。一方1938年には、「クーデター以後における党活動の停滞及び金銭トラブル」を理由にコミンテルンから追放される(コミンテルンは5年後に解散)[9]

サラザール独裁政権(エスタド・ノヴォ)時代には、多くの党員が逮捕され拷問を受けるなど、党に対する弾圧が強まった。また、中にはカーボベルデ強制収容所に送られた者もおり、ゴンサルヴェスは同地で死亡した。このような徹底した弾圧にも屈せず、1940年から翌年にかけて党再建と相成った(「1940年の再建」)。再建されて初めて開かれた1943年の党大会では、独裁政権の終結を求める者と団結すべきとの声明を発表したほか、国軍内部にシンパを増やす方針を打ち出した[10]

第二次世界大戦枢軸国側の敗北が決定的となった1945年、サラザールは西欧諸国に良いイメージを抱いてもらうためにも、幾ばくかの民主的変革を実行に移さねばならなくなった。こうした中、同年10月には民主化を求めるレジスタンス勢力による綱領作成が認可された。「民主同盟運動」と命名されたこの綱領は本来、穏健派が中心となって作成したものだが、瞬く間に共産党の強い影響下に置かれることとなる[11]

1946年7月に開催された第4回党大会では、政権を転覆させる唯一の方法として大規模な大衆運動を主導する必要性を指摘。本大会の決議はソビエト連邦共産党中央委員会により出版された。党幹部のアルヴァロ・クニャルはその際、ユーゴスラビアに赴き東側陣営との関係改善の支援を求めた。その後、1948年にはソ連へも足を運び、ミハイル・スースロフと会談を行った結果関係が修復。しかしクニャルはソ連からの帰国直後、秘密警察により逮捕された[9]

1957年9月の第5回党大会(キエフにて開催)では、初めて綱領と党則を採択。また、植民地主義に対する公的な立場を初めて示したのもこの党大会である。民族自決の権利は何人も有するものとして、アンゴラアンゴラ民族解放戦線 (MPLA) やモザンビークモザンビーク解放戦線 (FRELIMO) 、そしてギニアビサウギニア・カーボベルデ独立アフリカ党 (PAIGC) に対する支援を打ち出した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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