ポメレリア
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王領プロイセン(1466年 - 1772年、ポーランドの領土)。ポメレリアは青い部分。赤はクルマーラント、緑はエルビングマリーエンブルク、黄色はヴァルミア司教領(エルムラント)

ポメレリア(Pomerelia, カシューブ語: Porenkowo Pomorsko, ドイツ語: Pommerellen ポンメレレン)はポーランド北部のバルト海沿いにある歴史的地方名。ポメラニア東端部にあり、北はバルト海に、東はヴィスワ川とその河口の三角州に接している。ヴィスワ川の東はプロイセン

中心はヴィスワ川河口のグダンスク(ドイツ語: ダンツィヒ)。ポーランド語では「ポモージェ・グダンスキエ」(Pomorze Gda?skie、グダンスクのポメラニア)と呼ばれるこの地方は、現在ではポモージェ県の一部となっている。
先史時代

後にポメレリアと呼ばれるようになるこの地方は、紀元前650年から紀元前150年頃まではポメラニア文化があった[1]。紀元前150年から紀元1世紀までの間はルギ族(Rugii)やレモウィ族(Lemovii)と関連があるとされるオクシヴィエ文化[2]、1世紀から450年頃にはウェネティ族、ゴート族、ルギ族、ゲピド族などと関連があるとされるヴィェルバルク文化があったとされる[3]。ヨルダネスの著書「De origine actibusque Getarum」によれば、6世紀半ばにはウィディワリ(Vidivarii)という民族集団がヴィスワ川河口にいたとされている[4]7世紀から8世紀には[5]西スラヴ人がポメレリア地方に住むようになった[6]
ポメレリア公国ポメレリアのグリフォンの紋章。現在のポモージェ県の紋章でもある

10世紀にはポメレリアにスラブ系のポメラニア人が入植したが、ピャスト朝ポーランド王ボレスワフ1世により征服された。11世紀、ポメラニア人は独立した公国を誕生させる[7]

1116年/1121年、ポメラニア全域が再度ポーランド王国(国王ボレスワフ3世)に征服された。1121年にヴァルティスラフ1世のもとでポメラニア公国が独立するが、東部のポメレリアはポーランド領のままに残った。1138年、ボレスワフ3世が没すると、ポーランドはいくつかの半独立状態の公国へと細分化が始まり、ポメレリアでも公国が徐々に力を増して自立を始めた。これらの公国はピャスト朝の末裔が治めていたが、ポメレリア公国はソビェスワフ家(Sobies?aw)によって治められる王朝(Samborides)が支配した。このソビェスワフ家は1294年まで続いた。1227年にはポメレリアは独立国となるが[7][8][9]、その公はポーランド王およびデンマーク王の封臣であった。デンマークは、1210年ヴァルデマー2世国王の時期に、ポメラニアとプロシアで起こった異教徒の反乱を名目にこの地方に介入している。ムシチュイ2世の紋章

ポメレリア公国はさらに小さく細分化されていた。グダニスク(Gda?sk, ダンツィヒ)、ビャウォガルト(Bia?ogarda, ベルガルト)、シフィエチェ(?wiecie, シュヴェッツ)、ルビシェヴォ・トチェフスキェ(Lubieszewo-Tczew, リーブシャウ=ディルシャウ)などである。有名なポメレリア公にはムシチュイ1世(1207年 ? 1220年)、シフィエントペウク2世(1215年 ? 1266年)、ムシチュイ2世(1271年 ? 1294年)がいる。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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