ポニー・エクスプレス
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ポニー・エクスプレスの広告消印、1860年の西行き配達員がつけた徽章の複製

ポニー・エクスプレス(: Pony Express)は、1860年4月3日から1861年10月まで運行されたミズーリ州セントジョゼフからカリフォルニア州サクラメントまでの郵便速達サービスである。その経路はグレートプレーンズからロッキー山脈シエラネバダ山脈を越えるものだった。最初の大陸横断電信が開通するまで、アメリカ合衆国西部にとって最も有効な東西通信手段であり、南北戦争直前の時代にカリフォルニア州をアメリカ合衆国北部北軍)と密接に結びつけておくために重要だった。

ポニー・エクスプレスは1849年に設立されたヨヨ・レブンワース・アンド・パイクスピーク・エクスプレス会社の郵便配達制度であり、この会社は1850年にセントラル・オーバーランド・カリフォルニア・アンド・パイクスピーク・エクスプレス会社となった。ウィリアム・H・ラッセル、アレクサンダー・メジャーズおよびウィリアム・B・ワッデルが設立した[1]。セントジョゼフにあるパティハウスが1860年から1861年までポニー・エクスプレスの本社として機能した。そこは悪名高い無法者ジェシー・ジェイムズがロバート・フォードに撃たれて死んだ家から1ブロック離れた位置にある。

この最初の速達郵便であるポニー・エクスプレスは、アメリカ合衆国西部のプレーリー、平原、砂漠および山岳部を越えて、駅で馬を乗り継ぐ騎手によって運ばれた。運行された18ヶ月の間に大西洋太平洋の間の配達時間を約10日間にまで縮めた。ミシシッピ川から東は電信が開通していたので、およそ半分の距離はそれにより、残り半分は馬に乗った配達員が伝言を運んだ[2]
設立者アレクサンダー・メジャーズ

1858年には既にマイケル・アンド・カーソンが4,000人以上の人、3,500両の荷車および4万頭ほどの雄牛を使って運送業を始めていた。政府と契約して軍需物資を西部のフロンティアに運ぶものだった。ウィリアム・H・ラッセルは同様に合衆国政府と契約して速達便を運ぶアイディアを持っていた。

短い経路を使い、伝統的な駅馬車ではなく馬に乗った配達人を使えば、ミズーリ州セントジョゼフからカリフォルニア州サクラメントまで10日間で速達便を運べるという提案だった(それまでは25日以上を要していた)。その所要日数については多くの者が不可能だと言っていた。正確には夜通し走ったというわけではなかったが、おそらくその所要時間に対しては値段が高く、半オンス (14 g) あたり5ドルとされていた。ポニー・エクスプレスの設立者達は政府から排他的な契約を得られると期待していたが、それは実現しなかった。

ラッセルとメジャー、ワッデルは1860年の冬にちょうど2ヶ月間でポニー・エクスプレスを組織し纏め上げた。それは巨大な事業を請け負うものであり、騎手120人、駅184か所、馬400頭それに数百人の人員が要るものだった[3]

アレクサンダー・メジャーズは信仰心が厚く、「神の救いにより」あらゆる困難さに打ち勝てると決断し、全ての騎手に聖書を渡し、「私がA・メジャーズの従業員である限り、神を冒涜する言葉を使わず、酔っ払わず、賭け事をせず、動物を虐待せず、紳士の行為として恥ずべきこと全てを行わないことに同意する。またこれらの条項に違反したときは、働いた分の給与なしに解雇されることを認めることにも同意する。」という誓いを求めた。

ポニー・エクスプレスは統合された大陸横断の仕組みであれば年間を通して運営できることを訴えた。これが電信に置き換えられて以降、アメリカ西部の伝承の一部になってきた。技術的な革新ではなく個々の騎手と馬の能力と体力に依存していたことは、西部開拓時代の無骨な個人主義の一部でもあった。

1866年から1890年までポニー・エクスプレスのロゴは書留郵便と貨物の輸送を手がけたウェルズ・ファーゴが使っていた。アメリカ合衆国郵便公社は国内郵便の登録商標として「ポニー・エクスプレス」を使った[4]ロシアを本拠とするフレイトリンク宅配サービスはアメリカ合衆国郵便公社のものと類似したポニー・エクスプレスの登録商標とロゴを採用した[5]
運営セントジョゼフにあるポニー・エクスプレスの厩舎[6]

1860年時点で経路沿いに約10マイル (16 km) 毎に離れて157の駅が備えられた[7]。この距離は1頭の馬が早駆けで行くことのできる距離だった。各駅では騎手が新しい馬に乗り換え、「モチラ」(スペイン語でポーチまたはバックパックという意味)と呼ばれる郵袋のみを積み換えていた。従業員はこの郵袋の重要性を強調された。彼らはもし事あるときは馬や騎手よりも郵袋が大事だと言うことが多かった。モチラは鞍の上に投げ上げられ、騎手の体重で抑えられた。モチラの両隅には「キャンティナ」すなわちポケットがあった。手紙の束はこの「キャンティナ」に入れられ、安全のために南京錠が掛けられた。この「モチラ」には20ポンド (9 kg) の郵便が入れられ、さらに20ポンドの荷物も運べた。この20ポンドの中には水袋、聖書、駅長に乗り換え馬の準備を知らせる角笛、リボルバー拳銃1挺が入り、さらにはライフル銃かもう1挺のリボルバーかが選ばれた[8]。最終的にリボルバー拳銃1挺と水袋以外は取り去られ、馬の背負う荷重は165ポンド (75 kg) になった。騎手は体重125ポンド (57 kg) 以上は許されず、75ないし100マイル (120?160 km) 毎に騎手が入れ替わり、日夜騎乗を続けた。緊急の場合、1人の騎手が2行程を連続して乗ることがあり、早駆けする馬に20時間以上も乗り続けることがあった。

騎手が冬季にシエラネバダ山脈を越えようとしたかは不明であるが、ネバダ州中部を通過したのは事実である。1860年までにネバダ州カーソンシティには電信の中継所があった。騎手は給与として週25ドルを受け取った。当時未熟練労働者の給与は週1ドルが相場だった。

ポニー・エクスプレスの創設者の1人、アレクサンダー・メジャーズはこの事業のために400頭以上の馬を確保した。


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