ポナペ
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出典検索?: "ポンペイ島" ? ニュース ・ 書籍 ・ スカラー ・ CiNii ・ J-STAGE ・ NDL ・ dlib.jp ・ ジャパンサーチ ・ TWL(2011年12月)
ポンペイ州地図ポンペイ島地図

ポンペイ島(ポンペイとう、Pohnpei)は、西太平洋カロリン諸島にあるミクロネシア連邦ポンペイ州に属し、同連邦の首都パリキール (Palikir) の所在地である。ミクロネシア連邦による独立まではポナペ島と呼称された。ポンペイとはポンペイ語で「石積み (pehi) の上に (pohn) 」という意味。ポーンペイ島とも呼ばれる。池澤夏樹の短編集「南の島のティオ」の舞台はこの島がモデルである。
地理

北緯6度54分、東経158度14分に位置し、グアム島の東南東約1,700kmに相当する。平均直径約24kmの東西にやや長い円形の島で、海岸線は入り組んでいる。周囲は堡礁が発達しており、ラグーン内の25の小島と共に島のほぼ全周を囲んでいる。面積は330平方kmでミクロネシア連邦最大の島であり、ミクロネシア全体の中でもグアム島バベルダオブ島に次いで3番目に大きな島である。地質時代の火山島に由来し、最高峰は島のほぼ中央に位置する標高798mのナーナラウト山(Nahnalaud、大きな山の意)で、ミクロネシア連邦の最高峰でもある。その他にそのすぐ南にあるギーネニ山(Ngihneni、霊魂の歯の意)791mなどの山々が中央部に聳える。後述のように雨が多いために40本あまりの川があり、島の至るところに滝が見られる。ケプロイ滝、ナンピル川のリトゥトゥーニヤップ滝が有名である。

本島の海岸線はほとんどがマングローブ林であり、白砂の天然ビーチはポンペイ島には存在しない。島の南西約10kmにはアンツ環礁 、北西約30kmにはパキン環礁がありダイビングスポットである。

熱帯雨林気候であり、年間を通して平均気温がほぼ27-28℃、一日の最低気温が23℃、最高気温が31℃程度である。海岸部のコロニアでの平均年降水量は4,900mm、降水日は平均304日である。世界第一位とされる、太平洋のマッコーリー島の降雨日数、平均307日に続いて世界第二位とされ、世界的にも屈指の多雨地域である。内陸部では年降水量9,000-10,000mmに達すると言われている。1月から3月にかけてやや降雨量が少なくなるものの、一年を通じ満遍なく降雨があり蒸し暑い。湿度は通年78-91%である。7月から11月は東または南東寄り、12月から3月には北東寄りの貿易風が卓越する。7月から10月にかけての台風の発生地域であるが、大きく発達して接近することは少ないので甚大な被害は稀である。

人口は2021年の調査で36,832人。コロニア (Kolonia) 、ネッチ (Nett) 、ウー (U) 、マタラニウム (マトレニーム) (Madolenihmw) 、キチー (Kitti) 、ソケース(ショケーシュ、ショカーシ) (Sokehs) の6つの地区に分かれている。最も大きな市街地はコロニアにあり、1989年までここが連邦の首都であった。州都は2021年現在もコロニアである。なお、ヤップ州の州都もコロニアというが、そちらはColoniaと綴る。首都パリキールはコロニアから南西に約8km離れたソケース地区にある。小高い丘陵を切り拓いて作られた人工の街である。

時差は協定世界時(UTC)+11時間で、日本に比べて2時間早い。
歴史ポンペイ国際空港

他の東カロリン諸島の島々と同様に、ポンペイ島の最も古い住人は、紀元前1000年頃にメラネシアから航海して移住した人々と考えられている。島の南東部マタラニウムにあるナンマトル遺跡周辺では紀元前後の頃の居住跡が見出されている。

その後、紀元500年頃からナンマトルが建造され始め、1200年頃から1600年頃まで同地でシャウテレウル王朝(英語版)が栄えた。その後はネッチ、ウー、マタラニウム、キチ、ソケースの五つの王国 (wehi) に分かれて、それぞれがナンマルキと呼ばれる首長系統、およびナニケンと呼ばれる副首長系統によって治められてきた。ナンマルキ等の位階の制度は現在も続いており、各首長はそれぞれの地区で今日も権勢を有している。

1528年1529年の二度にわたり、スペインのサーベドラがフロリダ号を率いて太平洋を横断する際に、この海域の北緯6度ないし7度で島を目撃しており、これがポンペイ島またはその周囲の島に関するヨーロッパ人の最初の記録と考えられる。確実な記録は1595年のサン・ヘロニモ号によるスペインのキロスの来訪であり、彼は上陸しなかったもののポンペイ島に多数の住民の居住していることや、西隣のアンツ環礁についても記録している。

1565年のスペインの太平洋領有宣言、1668年の同国のグアム島占有施策開始の後も、スペインの実効的支配はポンペイをはじめ他の東カロリン諸島には及ばなかった。島はそれ以後もヨーロッパの航海者に何度か記録されるが、最初の上陸の記録は不明である。

19世紀初めからは、島は捕鯨船や商船の補給地として用いられ、数多くのヨーロッパ、アメリカの船が訪れ始めた。1830年代前半には年間5隻程度の来訪だったのが、1855年には年間100隻を超えている。これらの来航は島民との間に摩擦を生じることもあった。特に1836年のファルコン号事件ではマタラニウムの首長をはじめ、多数の住民の死者を出した。

更に船員達からもたらされた病気も深刻な影響を与えた。天然痘1840年代初頭から流行が始まり、1854年の流行では半年間に2,000?3,000名の死者を出した。1820年代には10,000人を超えていた島の人口は、1850年代後半には約2,000人まで減少している。この後もインフルエンザはしか等の流行が散発した。

他国の影響力増大を危惧したスペインは、1870年代にポンペイをはじめとするカロリン諸島の支配を強化し、交易権の確保を図った。ドイツはこれに反発して、1885年に戦艦を送りポンペイの領有を宣言した。これに対しては、教皇レオ13世の仲裁でスペインとの和解が成立し、ドイツは見返りとしてこの海域での交易権と漁業権を得ている。

1886年にスペインは、現在のコロニアの地をサンティアゴ・デ・ラ・アセンシオン (Santiago de la Ascension) と名付け、政庁を置いて正式領有を宣言した。ここにポンペイの100年に及ぶ外国支配が始まる。スペインは性急な植民地政策の確立を図ったが、上述の伝染病流行等の不安定な社会状況や、伝統的な首長制度との確執により、大きな成果は得られなかった。

1898年米西戦争の敗戦により、スペインはこの地域の権勢を失い、これを受けて1899年にドイツがグアムを除くマリアナ諸島マーシャル諸島とともにカロリン諸島の権益を2,500万ペセタで買収した。「ポナペ」の名前はドイツ占領時代に付けられたものである。ポンペイにおけるドイツの植民地政策は、当初はコプラ産業の振興等、経済発展を視野に入れた懐柔政策だったものの、次第に伝統への介入・否定や、インフラ整備のための強制労働の法制化等、締め付けの厳しいものになり、住民の不満が高まっていった。その中、1910年10月にはソケースの有力者が労働拒否により笞刑に処されたのをきっかけとして、住民が蜂起するソケースの反乱(en:Sokehs Rebellion)が起こった。知事らを殺害されたドイツ側はドイツ東洋艦隊より防護巡洋艦エムデン」を出動する大掛かりな鎮圧により、翌1911年2月に反乱は沈静化した。首謀者15人が処刑の上、ソケースの土地は植民地府に接収された。420名余りの住民はヤップに強制移住させられ、その一部は更にパラオの強制労働に就かされた。

1914年10月、第一次世界大戦の際に、日本は4隻の艦船をポンペイに入港、無血で占領した。大戦終決後の1920年には国際連盟によって、日本の委任統治(C式委任統治)が認められた。日本の占領政策はこれまでの支配と異なり、同化政策をとったが島民に日本国籍は与えられなかった(婚姻は別)。

委任統治下で近代的な電気水道学校病院などのインフラストラクチャーの充実が進み、同時に当地での農業、漁業を中心とする殖産興業が推進された。特に1922年南洋庁支庁の設置により、日本からの移民も多数ポンペイに入植し、1945年の終戦時点では13,000人を超す日本人が居住していた。


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