ポドゴリツァ
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ポドゴリツァ

Podgorica/Подгорица

ポドゴリツァ中心部


市旗市章

位置

位置
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座標 : .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯42度26分23秒 東経19度15分58秒 / 北緯42.43972度 東経19.26611度 / 42.43972; 19.26611
行政
モンテネグロ
 市ポドゴリツァ
市長Ivan Vukovi? (DPS
地理
面積 
  市域1,441 km2
標高44 m
人口
人口(2011年現在)
  市域150,977人
  都市圏185,937人
その他
等時帯中央ヨーロッパ時間 (UTC+1)
夏時間中央ヨーロッパ夏時間 (UTC+2)
郵便番号81000
市外局番+385 020
ナンバープレートPG
公式ウェブサイト : ⇒podgorica.me

ポドゴリツァ(モンテネグロ語セルビア語: Podgorica/Подгорица)は、モンテネグロ首都で、同国最大の都市である。リブニツァ川とモラチャ川が合流する適した場所に位置し、ゼタ平原とビェロパヴリッチ谷が接し居住地としても発展している。冬のスキーの中心地やアドリア海のリゾート地にも近い場所に位置する。1946年から1992年までの旧称はチトーグラード(Титоград/Titograd)。
呼称

都市の名称となっているポドゴリツァは、モンテネグロ語で「ゴリツァのふもと」を意味する。ゴリツァは「小さな丘」を意味し、イトスギが覆う市街を見下ろす丘を指す。北西に3km離れた場所には中世の国ドゥクリャの跡が残されている。ポドゴリツァはギリシャ、ローマ以前の時代、ローマ時代に知られていた。ローマ皇帝ディオクレティアヌスもこの地域にやって来ており、その後、ローマ人の付けた正式名「ディオクレア(Dioclea)」から"i"が抜け一般に広がり、スラヴ人が使う「ドゥクリャ(Duklja)」になったと 推測される。11世紀以前に設立された当初はビルジミニウムと呼ばれ、中世はリブニツァの名で知られた。ポドゴリツァの名称は1326年から使われ、ユーゴスラビア連邦時代は終身大統領ヨシップ・ブロズ・チトーの名誉からチトーグラードと称していた。
歴史
古代

ポドゴリツァはゼタ川、モラチャ川などの河川や峡谷、アドリア海近くのシュコダル湖があり肥沃な低地や適した気候であることから歴史的に重要な交通路の交点であった。最古の集落の跡は石器時代後期に遡る。イリュリア時代にはゼタ平原からビイェロパヴリッチ谷の間にはラビアーテ族とドゥクレアーテ族の二つのイリュリア人部族が占めていた。街の人口は8,000人から10,000人居たとされ、街の諸問題を自ら解決する自治が行われていた。高い人口密度は地理的な立地や適した気候、経済的な状況、当時重要であった守備などにより可能となっていた。5世紀になると最初のスラヴ人やアヴァールがやって来るようになりローマ帝国は崩壊し、周辺地域では多くの注目に値する出来事が起こった。時が経るに従い要塞は機能を止め、新たな町が作られた。スラヴ人はビュザンティウムと戦争を繰り返し新しい国を成立させた。
中世

その後、新たな集落が形成されおそらく集落が築かれた畔のリブニツァ川にちなみ名称が付けられている。最初にリブニツァについて言及されたのは、セルビア人の王朝ネマニッチ朝が支配した時期である。リブニツァは、西との通商の交点として重要であった。この地域はスラヴ人が占め、新たな国が作られ自らの文化芸術を発展させ、中世のキリスト教と封建階級を受け入れた。ポドゴリツァの名称が初めて言及されたのは1326年でコトルの公文書館の宮廷の文書であった。都市のドゥブロヴニクとネマニッチの国との間の交易ルートとして経済は強く、当時は良く開け街道はポドゴリツァを経由しトレビニェニクシッチに続いていた。賑やかな交差路のように、ポドゴリツァは地域の通商と交通の様々な中心として経済的にも軍事的にも戦略的場所として発展していた。
オスマン支配

オスマン帝国によりポドゴリツァは1474年に支配され経済や文化、芸術的な発展は妨げられた。1479年、ポドゴリツァはスクタリサンジャク(英語版)のカザとなった。オスマンは大規模な城塞と今でも現存する集落を建設し同時に良く発達した通商を作り上げ、オスマンの主要な地域の防御地点となった。1474年の情報ではゼタ公国アルバニア・ヴェネタの協調を妨害することを意図しスルタンがポドゴリツァとバレチュの城塞を再建し、5,000のトルコの一家を住まわせたとされる。[1][2] 城塞都市は塔と門、城壁によりオスマンがあらゆる攻撃に対処出来る難攻不落のものとなった。1864年にポドゴリツァはスクタリ・ヴィライェトのカザとなりトルコ語ブラックベリーを意味するボーウルトゥレン(Bo?urtlen)と呼ばれた。アルバニア語ではブルグリチェ(Burgurice)の名で知られる。1878年ベルリン会議によりポドゴリツァはオスマン帝国からモンテネグロ公国の領有へと代わり4世紀にわたるオスマン支配は終焉を迎え新しい時代のポドゴリツァが始まった。
20世紀初めから第二次世界大戦まで

都市は急速に強い商業都市として発展し、最初の資本集中の形が見られた。1904年に最初の金融機関であるゼツカ貯蓄銀行が設立された。これは後に現在のポドゴリチュカ銀行(Podgori?ka Banka)に発展する。近隣の町との間に道路網が整備され、1902年にタバコ工場が作られるが、これはポドゴリツァでは初の重要な営利企業であった。第一次世界大戦が終結するとポドゴリツァは力強く発展し新たに宣言されたモンテネグロ王国最大の都市となった。1916年から1918年にかけてポドゴリツァはモンテネグロの残りの地域とともにオーストリア=ハンガリー帝国に占領された。 連合国により解放された後、1918年にポドゴリツァタバコ専売ビルにて「ポドゴリツァ議会 (en) 」と呼ばれる会議が招集された。議会は主権を持つ独立国としてのモンテネグロを終わらせ、セルビアと共にユーゴスラビア王国に統合された。戦間期、ポドゴリツァの人口は約13,000人であった。第二次世界大戦時には甚大な被害を受けており[3]、70回の地上への徹底的な爆撃を受け4,100人が死亡した。1944年12月19日に解放されている。
戦後から21世紀

チトーグラードの名の下、ポドゴリツァは1946年7月13日モンテネグロ社会主義共和国の首都となった。 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRY)時代には空前の発展をし人口は劇的に増加した。重工業化が進み、インフラや教育、医療なども改善された。また、文化的な機関も設立されている。この期間、急速にモンテネグロの社会や経済の中心的な都市へと変わった。発展を謳歌していたが、1990年代に入るとのユーゴスラビア崩壊の始まりによって再び停滞を始めた。1992年4月2日にチトーグラードから再びポドゴリツァに名称が戻される。ユーゴスラビア崩壊に伴う戦争はモンテネグロでは避けられたが、経済的には広範な影響を受け、1990年代は経済的に停滞していた。21世紀に入ると経済の回復が始まり、ポドゴリツァは現代的で親西欧的な都市へと脱皮した。モンテネグロ独立の国民投票が成立する2006年5月には、公式に独立国の首都として都市としての地位や経済的な見通しが上がった。

ポドゴリツァ基礎自治体を構成していたトゥジ都市自治体は2018年9月1日に[4]ゴルボヴツィ都市自治体は2022年8月16日にゼタ基礎自治体として[5]、それぞれポドゴリツァから独立した。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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