ポティダイアの戦い
カルキディケ半島
戦争:ペロポネソス戦争
年月日:紀元前432年 - 紀元前430年
場所:ポティダイア近郊
結果:アテアナイの勝利
交戦勢力
アテナイコリントス
ポティダイア
ペロポネソス同盟諸国
指導者・指揮官
アルケストラトス
ポティダイアの戦い(英:Battle of Potidaea)は紀元前432年から紀元前430年にアテナイとコリントス・ポティダイアおよびペロポネソス同盟軍との間で戦われた会戦である。この戦いは前年のシュボタの海戦と共にペロポネソス戦争のきっかけとなった。 シュボタの海戦によってコリントスとの対立が明らかになったため、アテナイはコリントスの殖民都市であったがアテナイの同盟国であるポティダイアにパレネ そこでアテナイはアルケストラトス
目次
1 原因
2 戦争の経過
2.1 対峙
2.2 開戦
2.3 ポティダイア包囲
3 その後
4 脚注
5 参考文献
原因
戦争の経過
対峙
トラキアに到着して初めてポティダイア他のデロス同盟離脱を知ったアテナイ軍はポティダイアらとマケドニアを同時に相手にして戦うことはできないと判断し、ピリッポスやデルダス(英語版)と連携を取って戦おうとした。このアテナイの軍派遣に対し、コリントスはアリステウス指揮の下で重装歩兵1,600人と軽装歩兵400人をポティダイアに送った。さらにこれを受け、アテナイもまた重装歩兵2,000人と40隻の艦隊をカリアス2世他4名の将軍の指揮の下で新たに送った。アテナイの増援部隊はまずマケドニアに上陸し、先発隊の一部と合流してピュドナ(英語版)を包囲した後、ペルディッカス2世と講和し、続いてピリッポスとパウサニアス指揮下のマケドニア騎兵600騎と合流してポティダイアに向かった。
一方、コリントス、ポティダイアおよびその同盟軍はアテナイ軍の襲来を予想してポティダイアのオリュントス(英語版)に面した地点に着陣し、この同盟軍の総司令官にはアリステウスが、騎兵指揮官にはアテナイとの講和を破棄して再び寝返ったペルディッカス2世がなった。アリステウスはペルディッカス2世率いる騎兵200騎と同盟軍の一部をオリュントスに配し、本隊を率いて敵を待ち受けた。それに対し、アテナイ軍はマケドニア騎兵を含む一部をオリュントスに送り、本隊はアリステウスの待つポティダイアに進軍した。 アテナイ軍が到着すると両軍は交戦状態に入った。アリステウス率いる翼は前面の敵を破って追撃に移ったが、他の部分ではアテナイ軍が勝利を得て敵を城壁の中に追い込んだ。アリステウスは味方が劣勢にあるのを知ると、ポティダイアに戻るかオリュントスに向かうか思案した後ポティダイアに向かい、味方の犠牲を少数に抑えた。 オリュントスに送られたペルディッカス2世らの軍は戦いの信号があがると援軍に出、それにアテナイ側のマケドニア騎兵が対陣した。しかしアテナイの勝利が確定すると両軍は退いた。 この戦いでポティダイアおそびその同盟軍は300人弱を失い、アテナイ軍は150人とカリアスを失った。 その後アテナイはポティダイア近くの地峡に防壁を築いて守備隊を置いた。パレネ側が無防備であると知ったアテナイ本国からフォルミオン指揮の下でパレネへ1,600人の重装歩兵が送られ、彼らはポティダイア側に防壁を築き、これによってポティダイアは南北から塞がれ、さらに海からは艦船で封鎖されることになった。一方、敵に挟まれたアリステウスはポティダイアを脱出してカルキディケに向かい、戦いを続行した。 コリントスはスパルタにペロポネソス同盟諸国を召集し、対アテナイ宣戦を訴えた。アテナイからの使節および和平派のスパルタ王アルキダモス2世の説得にもかかわらず、紀元前432年にスパルタは対アテナイ宣戦を決定し、アテナイもそれに応じたことによってペロポネソス戦争は開戦の運びとなった。 一方、ポティダイア包囲は長期化し、これによる国庫の消耗(この包囲戦にアテナイは年2,000タラントンを消費した)、さらに開戦当初にアテナイで流行した疫病にアテナイは苦しんだ。しかし紀元前430年の冬の時点にはポティダイアの耐久力は限界に達しており(食糧不足によって人肉を食べるものさえ現れるほどであった)、アテナイに降伏した。 降伏の条件としてポティダイア市民がポティダイアを出て行くことがアテナイ側から提示され、ポティダイアはそれを受け入れ、市民たちはカルキディケ地方や各地に散った。後日ポティダイアにはアテナイ人が入植した。
開戦
ポティダイア包囲
その後
脚注^ ピリッポスはアレクサンドロス1世の子。
^ デルダス
参考文献