ポツダム会談
[Wikipedia|▼Menu]
ポツダム会談の様子。1945年7月

ポツダム会談(ポツダムかいだん)は、第二次世界大戦中の1945年7月17日から8月2日ソ連占領地域[1]となったポツダムに、イギリスアメリカ合衆国ソビエト連邦の3カ国の首脳が集まって行われた、第二次世界大戦の戦後処理を決定するための会談。

第二次世界大戦の連合国「三大国」の首脳会談が行われたのはこれで3度目であり、最後となった。主に討議されたのはドイツをはじめとしたヨーロッパおよび中東の戦後処理であり、会議の最後にはポツダム協定が策定された。

また7月26日には日本政府に対して日本軍無条件降伏などを求めるポツダム宣言が表明されたことで知られているが、会議の公式日程において対日問題は協議されなかった。
前史

第二次世界大戦の連合国は、戦争中からたびたび戦争方針や戦後構想を話し合う会議を持っていた。1943年のテヘラン会談は三大国の首脳が一堂に会する最初の会議となり、1945年ヤルタ会談ではヨーロッパ戦後構想の大枠が決定された。ところがソ連がヤルタ協定に反してルーマニアポーランドにおいて共産主義政権を樹立したことや、北イタリアにおけるドイツ軍の降伏問題にソ連が反発したことなど、三大国の間には懸案事項が重なっていた[2]。このためドイツ降伏の直前には、イギリス首相ウィンストン・チャーチルが「事態はこれ以上、通信によってほとんど事を運び得ず、できるだけ早く3人の政府の首脳の会合があるべきである」と発表する事態となり、アメリカ大統領ハリー・S・トルーマンもこれに同意した[2]。トルーマンはハリー・ホプキンスをモスクワに派遣し、ヨシフ・スターリンの同意を得て7月半ばに会議が開催されることとなった[2]

イギリスは国内経済が破綻しつつあったことと、アメリカ軍がヨーロッパから早くも撤退を始めていたこと、さらにソビエト軍のヨーロッパにおける勢力拡大が主たる関心事項であった[2]。このためイギリスはアメリカからの武器貸与・占領軍援助、さらにソ連占領地域からの食糧供給を要求していた。しかしチャーチルをはじめとする反共思想を持つ関係者は、ソ連との協定が無意味であるとも考えていた[3]。ソ連の主たる関心は自国の安全保障であり、傀儡となる共産主義政権を東欧に設置することで自国を守ろうとしていた(衛星国)。さらにドイツからの賠償獲得と、中東からアフリカへの進出も要求していた[4]。アメリカが望んでいたのは対日戦(太平洋戦争)へのソ連参戦であり、早い段階のヨーロッパ駐屯アメリカ軍の本国帰還であった[4]。トルーマンはこの会議が難航することを予想しており、会議には気乗りしていなかった[5]
会議ポツダムに集まった3ヶ国首脳。左からチャーチル英首相、トルーマン米大統領、スターリンソ連首相。(1945年7月25日)ポツダムに集まった3ヶ国首脳。前列左からアトリー、トルーマン、スターリン。後列左からリーヒ参謀長、ベヴィン英外相、バーンズ米国務長官、モロトフソ連外務人民委員
主要な出席者

イギリス

首相ウィンストン・チャーチル(7月26日まで)

前副首相、首相(7月27日以降):クレメント・アトリー

外相アンソニー・イーデン(7月26日まで)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:82 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef