ポスト・ディスコ
様式的起源電子音楽、実験音楽、ダブ、ディスコ など
文化的起源ニューヨーク、マイアミ、モントリオール、ロンドン 1970年代後期から1980年代初期
使用楽器シンセサイザー、ドラムマシン、シーケンサー、ボーカル、キーボード、サンプラー など
派生ジャンルHi-NRG, イタロ・ディスコ
ポスト・ディスコ(英:Post-disco)は、1970年代前半から1980年代初頭まで流行したディスコ音楽の流行が去った後、ダンスに関する暗中模索を行っていた時代の音楽である[1][2]。
音楽の傾向は、DJやプロデューサーによって、ダンス・ポップ[3][4]やブギ[5]、イタロ・ディスコ[5]に象徴されるようにより電子化、実験的なものだった[5]。テクノとハウスはポスト・ディスコから定着した[3][6][7][8][9][10]。
ディスコ音楽からは、シンセサイザーで作られるダンス系の音楽ジャンルの殆ど全てが派生して行ったが、正にその派生の最初期に当たる音楽ジャンルである。 ジョルジオ・モロダーとピート・ベロッテ
目次
1 歴史
1.1 使用時期
1.2 チャート
1.3 ポスト・ディスコ・リバイバル
2 特徴
2.1 演奏者
3 残した影響
4 レコード・レーベル
5 関連項目
6 脚注
歴史
ディスコ・デモリッション・ナイト[11]以降、ディスコ・ミュージックはラジオ局でのエアプレイが減少し、代わってブラック・コンテンポラリー、AOR、AC、トップ40もの、ヘヴィメタル、産業ロックなどが演奏されるようになった。ディスコ・ミュージックの主流レーベルだったカサブランカ・レコード、TKレコード、RSOレコードは経営難に陥った。しかし、Hi-NRG、イタロ・ディスコ、ブギー、ユーロビート、テクノポップといった新しいスタイルに分かれながら、ディスコ・ミュージックは生き残っていった[2][12]。
マイケル・ジャクソンの『オフ・ザ・ウォール』(プロデューサー:クインシー・ジョーンズ)は、R&Bやダンス・ミュージックを制作する一部のプロデューサーに影響を与えた[13]。ファンク・バンドのパーラメント-ファンカデリックは、1970年代と1980年代に多くのポスト・ディスコとポスト・パンクの音楽を制作した[14]。 「ポスト・ディスコ」という言葉は、生演奏のエレクトリック・ベース、ドラムスがないディスコ・ミュージックを定義するために、1984年にケイデンス・マガジンが初めて使用した[15]。「ポスト・ディスコ」は、ディスコ・ミュージックの終わりからハウス・ミュージックの出現の間の時代の音楽ジャンルをオールミュージックが表現するときに使用される[5]。 ポスト・ディスコ時代に成功したレコードたち(大半はR&B、ポップ指向) 年曲レーベルアーティストU.S. Dance [16]U.S. R&B [16]U.S. Pop [16]U.S. M.R. [16]U.K. Pop[17]
使用時期
チャート
1980年「Celebration」[18]De-Liteクール・アンド・ザ・ギャング#1#1#1 ('81)―#7
1981年「レッツ・グルーヴ」 [19]Columbiaアース・ウィンド・アンド・ファイアー#3#1#3―#3
1982年「Last Night a DJ Saved My Life」[20]Sound of New Yorkインディープ