ポウハタン
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ウェロウォコモコのロングハウス(長方形の会議場)に連座するポウハタン酋長と部族民たち(ジョン・スミスの編纂した地図から)

ポウハタン(英:Powhatan、綴りは Powatan あるいは Powhaten という形もある、あるいはポウハタン・レナペ、英:Powhatan Renape[1])は、アメリカインディアン部族名である。またポウハタン族と連携した強力な合議制部族連邦の名前でもある。
部族名の由来

ポウハタンという名前はワフンスナコックポウハタン酋長としての方が良く知られている)の出身である集落あるいは「町」の名前から得られたと信じられている。その町は現在のリッチモンド市の東端に位置した。ポウハタンは、町が川の航行可能な上限に位置していたが、その川を呼ぶときにインディアンが使った名前でもある(その川は現在ジェームズ川と呼ばれ、イギリス植民地人がその国王ジェームズ1世に因んで改名したものである)。

ポウハタンはバージニア・アルゴンキン語であり意味は不明だが、Po- あるいは Pau- あるいは Pow- と hatan を組み合わせたもので、「水流の中の滝」という意味とする説もある。語尾の hatan は、ジェームズ川の滝近くにある岩が露出している所を指している。似たような言葉として「マンハッタン」があり、その「ハッタン」は島の西部に沿ってある岩の多い地形を表している。ポウハタンの集落はジェームズ川の瀑布線にあった[2]

ヘンリコ郡東部のポウハタンヒルは全体的にインディアンの集落近くにある。ポウハタン郡とその郡庁所在地ポウハタンは、ポウハタン連邦の領土の西側に後年設立されたものであり、ポウハタン酋長の栄誉を称えて名付けられた。
かつての文化ロアノーク島でのポウハタン族の儀式の踊り(1585年、ジョン・ホワイト画)

ポウハタン族はバージニア海岸地域の瀑布線から東に住んでいる。丈夫な木の枝を柱に、イグサおよび樹皮で覆った(ウィグワム)を家屋にして小さな集落に分かれていた。集落にはトウモロコシ、マメ、カボチャを中心にした農場があり、近辺の大きな森で釣りや狩を行ってもいた。集落は部族のクラン(氏族)に属する多くの血縁家族で構成されており、部族は男女の酋長を調停役とし、呪い師と組んだ協議会を構成していた。酋長は「部族民を支配する」ような「王」や「女王」、「皇帝」というようなものではない。典型的なロングハウス(イロコイ連邦のもの)

部族の方針やもめごとは、ロングハウス(長方形の会議場)のなかで、部族民が「会議の火(council fire)」を連座で囲み、「大いなる神秘」のもと、調停者(酋長)たちの合議によって決定される。すべては合議制のルールの下で行われ、「絶対権力者」が部族を「率いる」というような白人社会の独任制ルールは存在しない。これは現在のポウハタン社会でも変わらない。

国立公園局による調査に拠れば、ポウハタンの男性は戦士かつ狩猟者であり、女性は農耕者かつ採集者だった。イギリス人は男性が敵や獲物を追い駆ける時は森の中を広範に走り歩き回り、背が高く細っそりとして均整の取れた体をしていたと記述した。女性は背が低く、穀物の世話をし、トウモロコシを叩いて粉にし、木の実を集め、その他家内の雑用をこなして時間を過ごすために強靭だった。男性が遠くまで狩猟に出る際には、女性が狩猟用のウィグワムを造った。ポウハタンの国内経済は両性の労働にかかっていた[3]ポウハタン族の漁猟風景(1590年、ジョン・ホワイト画)

男性は弓矢を射るのに邪魔にならないよう、髪の毛の右側を剃り上げていた。男女とも鹿皮の腰布姿で生活し、幼児は全裸だった。

彼ら北東部のインディアンは全て農業を行った。彼らは周期的にその集落をあちこちに移した。村人は焼畑農業を行った。集落は土壌の生産性が次第に落ちて行き、土地の魚や獲物の動物が少なくなると、別の土地に移された。集落の場所を変えるごとに、火を使って開墾し、移動後にはかなりの広さの切り開かれた土地が残った。インディアン達は東部中で獲物の動物の生息地をかなり広く開いておくためにも火を使っており、イギリス人植民地人は後にそれを「荒地」と呼んだ。ポウハタン族も豊富な漁場を持っていた。バッファローが15世紀初期にはこの地にもやってきた[4]。この時期のポウハタン族の生活様式については、ヘンリー・スペルマンという名のイギリス人が直に貴重な記録を残している。

彼らのポウハタン語は、東部アルゴンキン語族語に属し、「バージニア・アルゴンキン族」とも呼ばれた。最初期に白人が接触した時には現在のバージニア州東部に住んでいた。その名前は主要河川の航行可能な上限近くにあった集落から生まれたと信じられており、その集落も川もポウハタンと呼ばれた。
歴史
ポウハタン連邦の成立

16世紀後期と17世紀初期、ワフンスナコック(ポウハタン酋長)という酋長がピースメーカー(調停者)となり、テナコマカ(人口密度の高い土地という意味)[5]と呼ばれる東部バージニアの大半を覆うおよそ30部族と、イロコイ連邦のような強力な連邦国家を築いた。

ワフンスナコックは6部族間の調停役を継承したが、イギリス人入植者がそのバージニア植民地を1607年にジェームズタウンに設立した時までに30部族以上を支族としていた。ワフンスナコックの属する「ポウハタン連邦」を構成していた当初の6部族とは自身のポウハタン族と、アロハットク族、アッポマットク族、パムンキー族、マッタポニ族およびチスキアク族だった。

ポウハタン連邦は、1598年までにケコウタン族をその提携部族に招いた。その他の提携部族としては、パムンキー川そばのユータナンド族、ラッパハンノック族、モラウタカンド族、ウェイアノー族、パスパヘー族、およびナンセモンド族などがいた。大きな集落としては、クィユーコハノック、ワラスケオクなどの村が知られた。さらにこれら全て同じ言語を話す部族の中に密接な関係を持った部族がチッカホミニ川流域に住むチカホミニ族だった。

トーマス・ジェファーソンの有名な作品『ヴァージニア覚書』(1781年-1782年)の中で、ジェファーソンはポウハタン連邦が約20,000?の領土を占有しており、人口は約8,000人、そのうち2,400人は戦士だったと推計した[6]

これらの支族はそれぞれが自治を保っており、別にポウハタン族が他部族を「支配」していたわけではない。インディアンの社会に中央集権と言うシステムは無く、「首都」という概念も当てはまらない。


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