ポイントロバーツ
Point Roberts
国勢調査指定地域(CDP)
愛称: ザ・ポイント、ポイント・ボブ
ワシントン州におけるポイントロバーツの位置(左上の赤点)、ワットコム郡はその右の東西に細長い郡
ポイントロバーツ(英: Point Roberts)は、アメリカ合衆国ワシントン州ワットコム郡の国勢調査指定地域(CDP)である。郵便局があり、郵便番号は98281である[2]。2010年国勢調査による人口は1,314人。地元ではザ・ポイントあるいはポイント・ボブ(「ロバート」の略称)と呼ばれている。 アメリカ合衆国本土であり大陸部分であるが、大多数の部分とは物理的には離れている飛地となっている。ワシントン州の他の部分からは、陸路ではカナダブリティッシュコロンビア州を経由する必要がある。バウンダリー湾を海上あるいは空から渡って行くこともできる。 ポイントロバーツを最初に見たヨーロッパ人は、1791年にフランシスコ・デ・エリザ遠征隊の隊員だった。その探検で作られた地図には「アイル・デ・セペダ」あるいは「アイラ・デ・ゼペダ」と記されている[3][4]。1792年、イギリスのジョージ・バンクーバーの遠征隊と、スペインのディオニシオ・アルカラ・ガリアーノの遠征隊がポイントロバーツの近くで遭遇した。1792年6月13日朝、ガリアーノの指揮する帆船2隻がバウンダリー湾に入り、ポイントロバーツは島ではないことを確認し、「プンタ・セペダ」と改名した。その後ポイントロバーツを回り込んだときに、バンクーバー遠征隊の2番目の船であるHMSチャタムと出逢った。2つの隊は接触し、間もなく、情報を分け合うこととジョージア海峡の地図化について協力することで合意した[5]。ポイントロバーツという名前は、バンクーバーの友人であり、当初はその遠征隊の指揮を執ることになっていたヘンリー・ロバーツから採って、バンクーバーが名付けた[6]。1846年のオレゴン条約により、アメリカ合衆国とイギリス領北アメリカの境界を、ロッキー山脈からジョージア海峡まで、北緯49度線と定めたときに、ポイントロバーツはアメリカ合衆国に入ることになった。国境標識、デルタのイングリッシュブラフ道路から撮影上写真、注意書きの拡大。“警告!入国審査を受けずに合衆国に立ち入ると関税及び入管法違反で逮捕訴追される” メキシコ領カリフォルニアとロシア領アメリカの間で、アメリカ人にはオレゴン・カントリー、イギリス人にはコロンビア地区と呼ばれた論争のあった地域をアメリカとイギリスが共同領有した後、インディアナ州選出のアメリカ合衆国上院議員エドワード・A・ハネガンなどアメリカ人拡張論者が、ジェームズ・ポーク大統領を促して、北緯54度40分までのオレゴン・カントリー全体を併合させようとした。民主党員は「54度40、さもなくば戦い」をスローガンに選挙で選ばれていた(オレゴン境界紛争)。 ポークとその国務長官ジェームズ・ブキャナンは、コロンビア盆地の北にアメリカ人1人だけ(元はイギリス人)住んでいるとしても、全領土をアメリカのものとするのは問題があると考え、バンクーバー島を横切る北緯49度線を境界線として提案し、バンクーバー島の港を除いてその線より南ではイギリスに商業的権益が認められないものとした。
概要
歴史
ポイントロバーツに関する条約の歴史
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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