ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス
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ボールドウィン・ロコモティブ・ワークス (Baldwin Locomotive Works、BLW) は、かつてアメリカ合衆国ペンシルベニア州に存在した鉄道車両メーカー。1825年にマサイアス・ウィリアム・ボールドウィン(Matthias William Baldwin)によってフィラデルフィアで創業、蒸気機関車電気機関車ディーゼル機関車など7万両以上の機関車を製造した。1956年に機関車の製造を終了した。明治村9号蒸気機関車の銘板
年表

1825年 創業

1831年 初めて機関車を製作(展示用)

1832年 最初の機関車を製造

1887年 日本向けに
蒸気機関車を輸出

1906年 ペンシルベニア州エディストーンに移転

1929年 ホイットコムを買収(1931年から1940年までは子会社、以降は併合)

1939年 ディーゼル機関車をラインナップ

1948年 カナダカナディアン・ロコモティブ・カンパニー(CLC)をカナダ代理店とする。ウェスティングハウス・エレクトリックが株式を21%取得

1950年 ライマ・ハミルトンと合併、ボールドウィン・ライマ・ハミルトン(B-L-H)となる。CLC株をフェアバンクス・モースのカナダ子会社に売却

1953年 ウェスティングハウスが機関車用電装品の製造を中止

1956年 機関車製造終了

歴史
第一次世界大戦まで

ボールドウィン・ロコモティブ・ワークスの創業は、慎ましやかなものだった。創設者は宝石や銀細工の職人であったマサイアス・ウイリアム・ボールドウィンで、設立は1825年であった。当初は製本の機械やキャラコ(平織り綿布)捺染用のシリンダーを製造した。やがて、M.W.ボールドウィンは自分で使うために小型の定置機関を設計して作り上げ、そのできばえのよさから注文をとるようになり、やがて彼が蒸気機関に関心を持つことにつながった。

1831年、フィラデルフィア博物館の要請により、彼は展示用の小型の機関車を製作した。それがきっかけとなり、フィラデルフィア郊外の支線で使用する小型の機関車の製造を受注することになった。その直前に、カムデン・アンド・アンボイ鉄道(C&A)はイギリスロバート・スチーブンソン製の蒸気機関車(イギリスを擬人化したジョン・ブルという通称で呼ばれた)を輸入し、ニュージャージー州ボーデンタウンに保管していた。M.W.ボールドウインがそこを訪れたときにはまだ組み立てられていなかった。彼は取り外されている部品や主要部品の寸法を調査した。

初めての受注で直面した困難さというものは、今日、整備に携わる者が理解できるようなものではなかった。工具すら、簡単に入手することができない。シリンダーは、タガネで削りだす。M.W.ボールドウィンは、自らの手でその膨大な作業を負った。

そんな状況下、彼が作った最初の機関車は完成し、「オールド・アイアンサイド」すなわち「剛の者」と命名された。1832年11月23日、フィラデルフィア・ジャーマンタウン・アンド・ノリスタウン鉄道において試運転されたのちに営業に就き、20年以上の長きに渡り使用された。オールド・アイアンサイドは4輪(2動軸)の機関車で、5トン強の重さであった。動輪の直径は54インチ(1.37m)、シリンダー径は91/2インチ(240mm)、ストロークは18インチ(457mm)であった。動輪は鋳鉄製のハブと木製のスポークを持ち、鉄のタイヤを巻いていた。台枠は木製で、車輪の外側に位置していた。

ボールドウィンと親しい関係にあった多数のエンジニアのひとりに、ゼラ・コルバーン(Zerah Colburn)がいる。1854年から、彼が週刊新聞「レールウェイ・アドボケイト」(Railroad Advocate)を創刊する1861年までの間、M.W.ボールドウィンとは頻繁に行き来があり、その記録として「ザ・スピリット・オブ・ダークネス」という書物となっている。コルバーンはM.W.ボールドウィンの仕事の質を絶賛している。

当初、ボールドウィンは多数の蒸気機関車の製造をブロード・ストリート・フィラデルフィア工場で製造し続けるつもりであった。そこは、わずか196エーカー(0.79km2)の狭さであったため、1906年にはペンシルベニア州エディストーンに移転した。そこは616エーカー(2.5km2)もの広さであった。1928年までに、機関車製造に関わるすべての施設を移転させた。ボールドウィンは、すぐにアメリカ最大の、おそらくは世界最大の機関車製造会社となった。1907年、企業としてエリオット・クレッソン・メダルを受賞。

1915年から1918年にかけて、レミントン・アームズから合計200万挺のP14エンフィールド小銃およびM1917エンフィールド小銃の製造を請け負った。その意味において、第一次世界大戦の重要な貢献者ということができる。
蒸気機関車
電気機関車
蒸気タービン機関車
ディーゼル機関車

1939年、ボールドウィンは入換用ディーゼル機関車を初めて製品ラインナップに載せた。しかし、その2年後、アメリカの第二次世界大戦参戦により、その製造計画は挫折した。戦時生産本部(War Production Board、WPB)の命により、アルコとボールドウィンは鉄道関係では入換用機のみを製造することとなり、M3中戦車及びM4中戦車の製造メーカーの一つとなった。競合するEMDは本線用機関車の製造が命じられ、EMDのみがディーゼル機関車製造のノウハウを蓄積していき、戦後のアドバンテージへとつながってゆく。

戦後、ボールドウィンの業績はみるみる悪化していく。EMDとアルコがディーゼル機関車市場の大部分を握り、ボールドウィン、ライマ・ハミルトンフェアバンクス・モースが持っていた市場を奪った。ボールドウィンの入換用機関車は、その牽引力の強さで知られていたが、ロード・ユニット(本線用機関車)の製造において、信頼性を得ることに失敗した。ボールドウィンは市場の分析を誤り、蒸気機関車の製造も続けたため、鉄道関連製造部門での利益はわずかなものであった。

1948年、ボールドウィン製ディーゼル機関車や電気機関車の電装品で協業していたウェスティングハウス・エレクトリックがボールドウィンの株式の21%、50万株を取得し、最大の株主となった。ボールドウィンは、莫大な借金の返済に追われた。翌1949年5月4日、ウェスティングハウスの社長、マービン・W・スミスがボールドウィンの社長となった。

多角経営へと舵を切るなかで、1950年12月4日、ボールドウィンはライマ・ハミルトンと合併し、ボールドウィン・ライマ・ハミルトン(BLH)となった。しかしながら、市場占有率は減少する一方であった。1953年、ウェスティングハウスは駆動用電装品の製造を中止し、電装品をゼネラル・エレクトリックから購入しなければならなくなった。そして1956年、7万500両以上の機関車を作ってきたボールドウィンは、機関車の製造を中止した。ディーゼル機関車の製造両数は3,208両であった。

ボールドウィンのディーゼル機関車は、とくに原動機において、競合するEMDやアルコほどの信頼性を得ることができなかった。信頼性が高かったのは、ウェスティングハウスの電装品であった。
機関車製造終了以後

1956年に、ボールドウィン・ライマ・ハミルトン社は機関車の製造を終了し、建設機械の製造に業務を集中した。1965年にボールドウィン・ライマ・ハミルトン社はアーマー社(Armour and Company)の完全子会社となった。1970年にグレイハウンド社がアーマー社を買収し、グレイハウンド社は1972年にボールドウィン・ライマ・ハミルトン社を閉鎖した。
日本におけるボールドウィン台車

大正前期?昭和戦前期にかけて、日本の電車用台車として、ボールドウィン社が開発した台車が大量に採用された。日本の電車用台車としては、ブリル(J.G.Brill)社製のものと双璧をなした。

初期には輸入品も多数輸入されたが、日本国内のメーカー各社の製造技術が向上した中期以降にはコピー品が大量に製造された。台車枠が棒鋼組立式で一般的な部材で構成されており、製作が簡単だったため、技術力が未熟な日本の鉄道車両業界でも製作できたのがその理由とされている。

特に有名な台車としては、Baldwin-A・-AA形と呼ばれるものがある。

これは当時のMaster Car-Builders Associationと呼ばれる大手鉄道車両メーカーの団体が推奨したMCB規格と呼ばれるインタアーバン用高速電車向け台車の規格に従って設計された揺れ枕を備える釣り合い梁式台車であり、心皿荷重上限と軸距を自由に設定可能であったことや、乗り心地が比較的良好であったこと、それに高速化に伴って必要性が増大した両抱き式ブレーキの実装がライバルであったBrill 27MCB系よりも容易であったことなどから、特に昭和戦前期の日本の私鉄向けでは事実上の標準台車として広く普及した。


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