ボーフォート公爵
Duke of Beaufort
創設時期1682年12月2日
創設者チャールズ2世
貴族イングランド貴族
初代ヘンリー・サマセット(3代ウスター侯)
現所有者ヘンリー・サマセット
ボーフォート公爵(英語: Duke of Beaufort)は、イングランド貴族の公爵位。
第3代サマセット公ヘンリー・ボーフォートの非嫡出子チャールズ・サマセットが1514年に叙されたウスター伯爵(英語版)位を前身とする。5代ウスター伯ヘンリー・サマセットの代の1642年にウスター侯爵位を与えられ、3代ウスター侯ヘンリー・サマセットの代の1682年にボーフォート公爵位を与えられた。以来同公爵位はその子孫によって継承され、現在に至っている。2019年現在の当主は第12代ボーフォート公ヘンリー・サマセット(英語版)である。 ランカスター公ジョン・オブ・ゴーント(エドワード3世の四男)の子孫である第3代サマセット公ヘンリー・ボーフォートは1464年にヘクサムの戦いの敗北により処刑され、ついでその弟の第4代サマセット公エドムンド・ボーフォートも1471年のテュークスベリーの戦いの敗北で処刑され、サマセット公爵家の相続人は途絶えた[1]。 しかし第3代サマセット公には非嫡出子チャールズ・サマセット(1460-1526)があった(彼のサマセット姓は父の爵位から取っている)。彼は非嫡出子であるためサマセット公爵位の相続権はなかったが、ヘンリー7世の又従兄弟にあたるという関係から1514年2月1日に新たにイングランド貴族爵位ウスター伯爵
歴史
その子である2代ウスター伯ヘンリー(英語版)(1496-1549) は、ウスター伯爵位継承前の1512年3月21日に母エリザベス(英語版)から第4代ハーバート男爵(イングランド爵位)を継承している[3]。
3代ウスター伯ウィリアム (1526-1589) は、初代サマセット公エドワード・シーモアや第4代ノーフォーク公トマス・ハワードが大逆罪に問われた裁判に関与し、とりわけサマセット公の裁判においては有罪を主張する最右翼だった(この件と後述するサマセット公爵位復権をめぐる両家の争いから現在に至るまでサマセット公爵家とボーフォート公爵家は仲が悪く、和解は成っていない)[4]。
4代ウスター伯エドワード (1550-1628) は、ジェームズ1世からセヴァーン川の渡航料徴収権を獲得しており、この権利は20世紀まで続いた[5]。
5代ウスター伯ヘンリー (1577-1646) は1642年3月2日にイングランド貴族爵位ウスター侯爵(Marquess of Worcester)に叙せられた[6][7]。
2代ウスター侯エドワード(1602-1667)は、1645年にグラモーガン伯爵 (Earl of Glamorgan) 」に叙された。加えて従属爵位としてグロスモント子爵 (Viscount Grosmont) 」もしくはモンマス州におけるカルデコート城のボーフォート男爵 (Baron Beaufort, of Caldecote Castle in the County of Monmouth)あるいはその両方を与えられた。(この一連の爵位はその有効性及び存在性に議論がある)[7]。彼はさらに1660年の王政復古の際、先祖のサマセット公爵位の復権を受けることを狙ったが、シーモア家もサマセット公爵位の復権運動を行った。結局チャールズ2世はシーモア家のハートフォード侯爵ウィリアム・シーモア(初代サマセット公エドワード・シーモアの曾孫)にサマセット公爵位復権を認め、2代ウスター侯の主張は通らなかった[5][8]。グロスタシャー・バドミントン(英語版)にある自邸バドミントン・ハウス(英語版)をバックに立つ第10代ボーフォート公ヘンリー・サマセット。
3代ウスター侯ヘンリー (1629-1700) は、1682年12月2日に先祖の姓に由来するイングランド貴族爵位ボーフォート公爵が与えられた。これがボーフォート公爵家の始まりとなった[5][9][10]。彼は襲爵前には庶民院議員であり、王政復古の際に王党派として活躍した。以降もステュアート朝支持の王党派として行動し、トーリー党の代表的政治家となった。名誉革命の際にもジェームズ2世廃位・ウィリアム3世の即位に断固反対した[11]。また彼はグロスタシャー・バドミントン(英語版)に広大な領地と邸宅(英語版)を入手し、以降ここが公爵家の本拠となっている[5]。
3代公ヘンリー (1707-1745) は、第3代スカダモー子爵ジェイムズ・スカダモー(英語版)の娘フランセスと結婚したが、彼女の浮気を理由に離婚。その離婚訴訟の中でフランセスから性的不能者扱いされたことに激怒し、6人の医師から自らが不能者ではないことを証明してもらう騒ぎになり、話題となった[12]。