ボードゥアン3世
Baudouin III
エルサレム王
在位1143年12月25日 - 1163年2月10日
戴冠式1143年12月25日
出生1130年
死去1163年2月10日
レバノン、ベイルート
埋葬聖墳墓教会
配偶者テオドラ・コムネナ
ボードゥアン3世(フランス語: Baudouin III, 英語: Baldwin III, 1130年 - 1163年2月10日[1])は、エルサレム王(在位:1143年 - 1163年)である。父親はエルサレム王フルク5世、母親はメリザンド(英語版)である。ボードゥアンはまだ幼いころに王位を継承したため、治世初期は母親のメリザンド王妃が摂政として政治を取り仕切っていたが、成長後にメリザンドとボードゥアンは対立。内戦を経て、ボードゥアンはメリザンド派を討伐し、親政を開始した。ボードゥアンの治世において、エルサレム王国はビザンツ帝国と以前にも増した強固な同盟を締結した。また第2回十字軍の折には王国はダマスカス征服を試みたが、これは失敗に終わった。ボードゥアンは王国南部の重要な要塞アスカロンをファーティマ朝より奪還し占領することに成功したものの、王国北部のシリア地方で勢力を拡大していたヌールッディーン率いるザンギー朝に対しては苦戦を強いられた。彼は継嗣を残すことなく亡くなり、エルサレム王位は弟のアモーリーに継承された。 ボードゥアン3世は1130年に誕生した。このころのエルサレム王国はボードゥアン3世の父方の祖父ボードゥアン2世が統治しており、ボードゥアン3世は王国建国から3世代目の統治者として誕生したのであった。ボードゥアン3世の母親はエルサレム王族のメリザンド
王位継承
エルサレム王国では女性と子供による統治が開始され、政治的状況はより緊迫したものとなった。トリポリ伯国・アンティオキア公国・エデッサ伯国といった北方の十字軍国家はエルサレム王国からの独立の主張を強め始めたものの、この時のエルサレム王国にはかつてボードゥアン2世やフルク5世が行ったように諸国に対して宗主権の承認を強制させることのできるほどの国王は存在しなかった。またムスリム世界においては、ザンギーがモースル・アレッポをはじめとするシリア地域を統治しており、さらに勢力を南部に拡大してダマスカスを征服しようと企んでいた。1144年、ザンギーはエデッサ伯国の首都エデッサを攻め落とし(英語版)、十字軍国家のひとつであるエデッサ伯国を滅亡に追い込んだ。これは西ヨーロッパ世界に衝撃を与え、エデッサ回復を標榜する新たな十字軍遠征が計画・実行された。
新たな十字軍は1148年になって初めてエルサレムに辿り着いたが、1146年には強敵ザンギーが暗殺された。ザンギーの政策は息子のヌールッディーンが引き継ぎ、彼もまたダマスカス併合を目指していた。ヌールッディーンのダマスカス併合の企みに対抗するため、ダマスカスのムスリム政権はエルサレム王国と同盟を結び、相互防衛協定を締結した。しかし1147年、ムスリム人のダマスカス領主ムイーヌッディーン・ウヌルはエルサレム王国との協定を破棄し、代わりにヌールッディーンと同盟を締結した。エルサレム王国がウヌルに対して反旗を翻したムスリム領主と同盟を結んだことが原因であった。ボードゥアン3世はエルサレムから出陣し、ムスリム人がおさえるボスラ砦を占領しようと試みた(英語版)。しかしこの際、ヌールッディーンが軍勢を率いてボスラに現れたため、十字軍は撤退に追い込まれた。十字軍は王国から撤退する際、ヌールッディーン指揮下の騎馬隊から攻撃を受けたが、ボードゥアン3世は勇敢に騎士たちを指揮してヌールッディーン軍を迎え撃ち、ムスリム軍を追い返した。その後、エルサレム王国とダマスカス政権との間で再び協定が締結された。ボードゥアン3世の治世下で鋳造されたコイン。裏側にはダビデの塔が彫刻されている 1148年、遂に十字軍がエルサレムに到着した。この遠征部隊はフランス王ルイ7世と彼の王妃アリエノール・ダキテーヌ、ローマ王コンラート3世らが率いていた。十字軍遠征部隊の到着を受けて、同年中にボードゥアン3世はアッコにて会議を開催し
第2回十字軍
十字軍の遠征部隊は1149年までにヨーロッパへと帰還した。これによりエルサレムの軍事力は大きく激減した。ヌールッディーンは機を逃さず十字軍に攻勢を仕掛け、続くイナブの戦いでアンティオキア公レーモンを討ち取った。ボードゥアン3世は領主を失ったアンティオキア公国に急行し摂政として公国を統治した。戦死したアンティオキア公レーモンの未亡人コンスタンスはボードゥアン3世の母方の従姉妹であり、父親がアンティオキア公ボエモン2世であったことから、コンスタンスはアンティオキア公の正統な継承者であった。それゆえに、ボードゥアン3世はコンスタンスと結婚しアンティオキア公継承権を獲得しようと試みたとされるが、この試みは失敗した。またボードゥアンは北方に残されていたエデッサ伯国の領土en: Turbesselの防衛にも失敗し、1150年8月にはTurbesselの支配権のビザンツ帝国への移譲を迫られた。そして彼はアインタブの戦い(英語版)でヌールッディーンの軍勢の攻撃に晒されつつも、Turbesselのキリスト教徒住民を守り抜き、無事に退避させた。1152年、ボードゥアン王とメリザンド女王はボードゥアンの叔母オディエルナ(英語版)とその夫のトリポリ伯レーモン2世との間で勃発した紛争を解決するためにトリポリへ向かった。ボードゥアンはこの紛争を調停したものの、いざエルサレムに帰還しようとした時、レーモン2世が暗殺された。ボードゥアンはその後しばらくトリポリ伯国に滞在し事件の事後処理などを行い、またオディエルナもトリポリに留まって自身の幼い息子レーモン3世の摂政として伯国の統治を継続した。 1152年、ボードゥアン3世は十分に成長し切っており、もはや摂政の助けを必要としていなかったため、彼は自身で政治的問題に取り掛かるようになった。彼はかつては政治に関心をほとんど示していなかったものの、このころには自身の国王としての権威を要求するようになっていたのである。ボードゥアンの摂政としてこれまで政治を取り仕切っていたメリザンド王妃は、1150年より彼と対立を深め始め、またボードゥアン3世はエルサレム王国軍司令官マナセスによる自身の法的継承権に対する干渉に対して不満を募らせて非難の声を上げた。そして1152年、ボードゥアン3世はエルサレムのフルク総司教
内戦
ボードゥアンとメリザンドはこの問題をエルサレム高等法院(英語版)(または王立議会)に委任することに同意し、結果、エルサレム王国を両者の間で分割するよう取り決められた。ボードゥアン3世はガリラヤ・アッコ・ティールを含む王国北部を保持し、一方メリザンドはユダヤ・サマリア・ナーブルス、そしてエルサレムを含む王国南部を領有することとなった。