ボーイ_(アルバム)
[Wikipedia|▼Menu]

『Boy』
U2スタジオ・アルバム
リリース1980年10月20日
録音ウィンドミルレーン・スタジオ, 1980年
ジャンルポストパンク/ロック
時間42分13秒
レーベルアイランド・レコード
プロデューススティーヴ・リリーホワイト
専門評論家によるレビュー


Allmusic link

Rolling Stone link

チャート最高順位

全英52位

全米63位

ゴールドディスク
全英ゴールド、全米プラチナ、カナダプラチナ、オーストラリアゴールド
U2 アルバム 年表

スリー
(1979年)ボーイ
(1980年)アイリッシュ・オクトーバー
(1981年)

テンプレートを表示

『ボーイ』 (BOY ) は、アイルランドロックバンドU2デビューアルバムである。
概要

1980年9月にデビューして以来、母国アイルランドでの人気を固めていたU2は、本作の発表とライブツアーにより国外進出のきっかけをつかむ。イギリスのほか、アメリカでも東海岸のカレッジチャートから注目され始めた。

音楽プロデューサーには『Boy』の前に「11 O'Clock Tick Tock」をプロデュースしたマーティン・ハネットを起用する予定だったが、キャンセルとなった。その理由については@ハネットがプロデュースしていたJoy Divisionのボーカル・イアン・カーティスが自殺したことA既にジョイ・ディヴィジョンやMagazineのプロデュースで有名になっていたハネットの色が強くなることをU2のメンバーが嫌ったこと[1]B当時ハネットが麻薬に溺れていたことなど諸説ある。[2]

代わりにプロデューサーに起用されたのが、ピーター・ガブリエルXTCなどを手がけて頭角を現しつつあったスティーヴ・リリーホワイトだった。リリーホワイトがプロデュースを手がけたSiouxsie and the Bansheesの1978年のデビューシングル「Hong Kong Garden」で使用されたグロッケンシュピールの使い方が面白かったので、それを「I Will Follow」に使おうと考えたのである。

リリーホワイトのほうは初めてU2のデモを聞かされた時は、その酷い音質も相まり、この話は断ろうと思っていたらしいが、コークで行われたU2のライブを観て気が変わった[3]

僕はそこで何かを見たんだ。リードシンガーには情熱があった。これは僕が昔から才能を発掘する能力があることを証明するものだ。そこで見たボノは、今のボノとまったく一緒だからね。彼は荒地に転がっているダイヤモンドだった。[4](スティーヴ・リリーホワイト)

当時のアイルランドのスタジオはトラディショナルバンド御用達で、Thin LizzyThe Boomtown Ratsのような売れっ子ポップミュージシャンはよりよいレコーディング環境を求めてロンドンなどでレコーディングしていたたのだが、U2はレコーディングはダブリンのウィンドミルレーン・スタジオで行われた(2015年4月に取り壊された[5])。レコーディング前に既にTwilight、Out Of Control、Stories For Boys、A Day Without Me、Another Time, Another Place、Shadows And Tall Treesは書き上がっており、ライブでも演奏されていたが、それらの曲に手を加え、さらに新曲も作った。兄貴肌のリリーホワイトは若いメンバーをよく引っ張ったが、内心、U2の才能をそれほど高く買っていたわけではなかったようだ。

当時の彼らは成功するなんて、とても思えなかった。エコー・アンド・ザ・バニーメンやザ・ティアドロップ・エクスプローズなんかと比べるとね。一言、イケてなかったんだ。だが、俺は彼らのサウンドが何より好きだった。彼らの精神が好きだった。彼らは勝つことなんて考えてなかった。負けないことばかり考えてた。自分たちの限界が痛いほどよく判ってたんだ。だが、諦めなかったんだよ。ボノの声は衝撃的だったね。彼をロック・シンガーだって思ったことはない。フランク・シナトラがエレクトリック・ギターをバックに歌ってるみたいなもんだ。ジ・エッジがこんなギター・ヒーローになったってのも、信じられないな。だって、あの頃はギターを1本しか持ってなかったんだぜ (笑)。けど、それで大したことをやったんだ。[6](スティーヴ・リリーホワイト)

レコーディング中、ボノは自分は歌詞に興味がなく、また書けないことを発見した。この頃のボノはマイクの前に立ち、思いつくまま「ボノ語」と呼ばれる言葉を並べるだけだった。ボノが自覚的に歌詞を書くようになったのは、The Joshua Treeからである。

そして出来上がったアルバムのサウンドはリリーホワイト独特の残響処理が冷たく澄んだ雰囲気を醸し出しており、ボノが綴る歌詞には、少年から大人へ成長する過程のナイーヴな戸惑いが込められている。オープニング・ナンバーの「I Will Follow」は、ボノが14歳の時に亡くした母親へ捧げた曲として有名であり、現在でもライブのセット・リストに頻繁に組み込まれている。ちなみにB面曲も含めて、すべての曲が最低1回はライブで演奏されたことがあるU2の唯一のアルバムである。リリーホワイトは本作からサードアルバム『WAR(闘)』までU2のプロデュースを手がけることになる。
ジャケット

ジャケットの写真を撮ったのはヒューゴ・マクギネス、装丁はダブリン初のパンクバンドと呼ばれたThe Radiators from Spaceの元メンバーで、アダムと一緒にU2の名前を考案したスティーブ・アブリル、モデルの少年は、リプトン・ヴィレッジと名乗っていたU2の幼馴染グループのメンバーで、後にゴスロック・バンドVirgine Prunesのメンバーとなったグッギの弟で、現在は写真家をしているピーター・ローウェンである。

が、北米では、ジャケットにバンドの名前もアルバムのタイトルもないこと、またそのデザインが児童性愛を思わせるということからレコード会社によって、ジャケットはメンバー4人の写真に差し替えられた。北米盤のジャケットの写真家にはサンディ・ポーターという人物がクレジットされている(が、インナーにはピーターの写真が残っている)。そのため北米のゲイのファンはこぞって輸入盤を手に入れたのだという。2008年にBoyのデラックス・エディションがリリースされた際には、北米でも元のジャケットが使われた。
収録曲
アイ・ウィル・フォロー - I Will Follow

トワイライト - Twilight        初出は2ndシングルAnother DayのB面。A面曲はアルバムから外されたがこの曲は残った。 Twilight(黄昏)とは、少年から大人になる不安定な時期をTwilight Zoneになぞらえたもの。が、歌詞に出てくる「The Old Man」という言葉は、70年代のアイルランドでは父親のことを差す俗語だったのに、UKとUSではゲイを差す俗語だったために、ホモセクシャルのことを歌っていると解釈され、「Stories For Boys」と並びゲイのファンを多数獲得することになった。初期のU2のライブには多数のゲイのファンが集まったのだという。

アン・キャット・ダブ - An Cat DubAn Cat Dubhとはケルト語で「黒猫」の意味。高校時代から付き合っていたボノとアリだが、一時期、別れていた時期があり、その間ボノが付き合っていた女性を黒猫に喩えている。もちろん、黒猫とは小悪魔的な女性の比喩だ。ボノ曰く「鳥を食らい、その死骸を振り、そしてその横に横たわる」猫のイメージなのだとか。「And when she is done/She sleeps beside the one(飛び回るだけ飛び回って/電柱の傍で一休み)」という歌詞にそれが現れている。デビュー前からセトリに入っていたが、歌詞はその都度変わった。イギー・ポップの「歌詞はマイクの前に立ってから考える」という言葉に影響を受けていたからである。U2が歌詞に自覚的に取り組むようになるのは『The Joshua Tree』からだ

イントゥ・ザ・ハート - Into the Heart子供時代、成熟期、そして無垢の喪失がテーマ。「An Cat Dubh」から「Into the Heart」に一気に雪崩れ込む展開は以前からライブでやっていたことで、それをそのままアルバムでも採用したのだという。

アウト・オブ・コントロール - Out of Cotroll初出は1979年にアイルランド限定でリリースされた「Three」。曲のテーマは「人生においてもっとも重要な2つの決断ーー生まれることと死ぬことーーは自分ではどうしようもない」ということ。ボノが18歳の誕生日の翌朝に書いたということになっているが、歌の出だしの歌詞は「Monday morning knitting ears of gold」であるのに、実際のボノの18歳の誕生日である1978年5月10日は水曜日だから、ハイプ臭い。 ちなみにBoyの邦盤では、「Monday morning/Eighteen years of dawing」の部分が、「Monday morning/Knitting years of gold」と誤訳されていたらしいのだが、ボノは結構気に入ってるらしい。          

ストーリーズ・フォー・ボーイズ - Stories for Boys初出は1979年にアイルランド限定でリリースされた「Three」。映画やテレビのヒーローに憧れるあまり大人に脱皮できない少年のことを歌った曲。ポール・マクギネスはマスターベーションの曲だと思っていたらしい。これも「Twilight」と同じくゲイの歌と解釈された。1979年にリリースされた「Just For Kicks」という時アイルランドで人気があった12組のニューウェーブバンドのコンピにデモヴァージョンが収録されている。1979年ホットプレス年間ベストシングル第2位[7]。1980年1月15日、U2がRTEのLate Late Showに出演した際に演奏された。    

ジ・オーシャン - The Ocean海を眺めながら「I felt like a star」とやや誇大妄想的な自分の将来に思いを馳せている少年(ボノだ)が描かれている。ダブリン近郊にアイリッシュ海に面したラッシュという街があり、夏になるとダブリンの人々はそこへ海水浴に出かけるのだが、ボノの家族もそうしていたらしく、その経験が生きている。また歌詞にはオスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」の主人公ドリアン・グレイが登場する。


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:36 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef