ブルーワンのボーイング717-200
用途:旅客機
分類:ナローボディ機
設計者:マクドネル・ダグラス
製造者:ボーイング
運用者(2017年7月現在)[1]
デルタ航空
カンタスリンク
ハワイアン航空
ボロテア
トルクメニスタン航空
初飛行:1998年9月2日
生産数:156機[2]
運用開始:1999年10月12日
運用状況:運用中
表示 ボーイング717のロゴ
ボーイング717 (Boeing 717) は、アメリカ合衆国のボーイングが製造した、100席級のナローボディの双発ジェット旅客機である[3][4]。当初はマクドネル・ダグラスによりMD-95として開発が進められていたが、同社がボーイングに吸収合併されたことでボーイング717の名称が与えられた。
717はダグラスが開発したDC-9の発展型で、DC-9由来の胴体断面、低翼配置の主翼、T字型の尾翼を備え、胴体尾部の左右に1発ずつターボファンエンジンを備える。機体寸法は、全長が37.81メートル、全幅は28.45メートル、全高は8.92メートルで、標準座席数は106(2クラス)から117席(1クラス)である。ボーイング717のラインナップは717-200の一種類のみだが、オプションで燃料タンクを増設して最大離陸重量を増加させたHGW型がある。
1995年10月にMD-95の正式開発が決定され、途中マクドネル・ダグラスがボーイングに吸収合併されるという出来事もあったが、合併後も唯一開発・生産が継続されたマクドネル・ダグラスの旅客機となった。717は1999年10月にエアトラン航空によって初就航し、従来ターボプロップ機のみを運航していた小さな航空会社でも採用された。ボーイングはボーイング737との売り分けを考えていたが受注は伸び悩み、2006年5月に最終機の引き渡しが行われて生産が終了した。717の総生産数は156機であった。2017年10月現在、717に関して5件の航空事故・事件が発生しているが、機体損失事故および死亡事故に至ったものはない。
本項では以下、ダグラス、マクドネル・ダグラス、ボーイングおよびエアバス製旅客機については社名を省略して英数字のみで表記する。たとえばマクドネル・ダグラスMD-80は「MD-80」、ボーイング737は「737」、エアバスA320は「A320」とする。目次
1 沿革
1.1 開発の背景
1.2 ボーイング機としての開発継続
1.3 生産と試験
1.4 就航開始
1.5 生産終了まで
2 機体の特徴
2.1 形状・構造
2.2 飛行システム
2.3 客室・貨物室
3 運用の状況
3.1 受注・納入数
4 主な事故・事件
5 主要諸元
6 脚注
6.1 注釈
6.2 出典
7 参考文献
7.1 書籍
7.2 論文・雑誌記事等
7.3 オンライン資料
8 関連項目
9 外部リンク
沿革
開発の背景 ダグラスが開発した小型ジェット旅客機DC-9。
米国のダグラスは、同社で最初のジェット旅客機となるDC-8を開発した後、プロペラ機が担っていた小型旅客機市場に向けて、短距離用の小型ジェット旅客機のDC-9を開発した[5]。DC-9シリーズで最初のモデルとなったのはDC-9-10で、1965年12月8日に初就航した[5]。DC-9は胴体尾部の左右に1発ずつターボファンエンジンを装備してT字型の尾翼を持ち、客席の通路が1本のナローボディ機であった[6]。ダグラスはDC-9-10をベースに胴体延長型や最大離陸重量増加型といった派生型を開発してDC-9シリーズのラインナップを拡充した[7]。1967年4月、ダグラスは同じ米国の航空機メーカーのマクドネルと合併してマクドネル・ダグラスとなった[8]。
1970年代の中頃になると、150席級の旅客機の需要が高まると考えられるようになり、マクドネル・ダグラスはDC-9のさらなる胴体延長型を開発して対応しようとした[9]。このモデルでは主翼などの設計変更やエンジンの更新も行うことになり、1977年10月14日に正式な開発が決定してDC-9スーパー80と呼ばれた[9]。DC-9スーパー80の最初のモデルは1980年8月25日に型式証明を取得し、その年の10月に路線就航を開始した[10]。1983年7月、マクドネル・ダグラスは製品名の変更を発表し、DC-9スーパー80はMD-80シリーズと呼ばれることとなった[10]。MD-80シリーズでも胴体長や航続距離性能が異なるシリーズ機が開発されたが、いずれもDC-9と同じ胴体断面を用い、尾部のエンジン配置とT字尾翼という特徴もDC-9から引き継がれた[11]。
1984年3月、欧州のエアバスが完全に新設計のA320の開発を決定し、150席級のジェット旅客機市場への参入を決めた[12][13]。また、1981年3月にはボーイングも737の発展型(737-300)の開発を決定しており、さらなる後継機計画も検討していた[12][13][14][注釈 1]。