ボワロー=ナルスジャック
[Wikipedia|▼Menu]
.mw-parser-output .side-box{margin:4px 0;box-sizing:border-box;border:1px solid #aaa;font-size:88%;line-height:1.25em;background-color:#f9f9f9;display:flow-root}.mw-parser-output .side-box-abovebelow,.mw-parser-output .side-box-text{padding:0.25em 0.9em}.mw-parser-output .side-box-image{padding:2px 0 2px 0.9em;text-align:center}.mw-parser-output .side-box-imageright{padding:2px 0.9em 2px 0;text-align:center}@media(min-width:500px){.mw-parser-output .side-box-flex{display:flex;align-items:center}.mw-parser-output .side-box-text{flex:1}}@media(min-width:720px){.mw-parser-output .side-box{width:238px}.mw-parser-output .side-box-right{clear:right;float:right;margin-left:1em}.mw-parser-output .side-box-left{margin-right:1em}}ポータル 文学

ボワロー=ナルスジャック(Boileau-Narcejac)は、フランスの2人共同の作家。

ピエール・ボワロー(Pierre Boileau, 1906年4月28日 - 1989年1月16日

トマ・ナルスジャック(Thomas Narcejac, 1908年7月3日 - 1998年6月9日

推理小説を2人名義で数多く執筆した。映画化された『悪魔のような女』(クルーゾー、1955年)、『めまい』(ヒッチコック、1958年)が知られる。それぞれ推理作家として出発、1948年に出会い、共同執筆を始めた。アルセーヌ・ルパンの名で書かれたリュパンものの新作も2人の手になる。ボワローは、日本では「ボワロ」「ボアロー」とされることも多い。推理小説の理論書も著している。
略歴

ピエール・ボワローは1906年、パリのモンマルトル生まれ。本名ピエール=ルイ・ボワロー。幼少期から推理小説を愛読して育ち、推理作家にあこがれながらも、経済的な事情から作家を目指すことが難しかったため、商業学校で簿記を学ぶ。卒業後は、建設会社や広告会社や食品会社など職業を転々としながら、短編推理小説を執筆して雑誌に投稿する。二、三の雑誌で短編が好評だったことから、作家として本格的に活動することを決意し、長編推理小説にもとりかかる。1938年には『三つの消失』で冒険小説大賞を受賞。この時期の作風は、主に名探偵アンドレ・ブリュネルによるトリックの解明を描いた本格推理小説に属する。しかしその後、第二次世界大戦の勃発によって、推理作家としての活動は中断させられる。さらに戦後のフランスでは、ジェイムズ・ハドリー・チェイスが好評を得たことをきっかけに「ロマン・ノワール(暗黒小説)」が流行し、ボワローが理想とする謎とトリックの解明に重点をおいた推理小説は時代遅れとなってしまった。謎の解明よりも暴力と犯罪の描写に重点をおいたロマン・ノワールの流行に馴染めず、推理作家として行き詰るボワローだったが、1947年にトーマ・ナルスジャックによる評論『探偵小説の美学』『ブラッフの終り―ハードボイルド論』を読んだことから感銘を受け、ナルスジャックに手紙を書いたことから文通が始まった[1]

トーマ・ナルスジャックは1908年、ロシュフォール=シュル=メール生まれ。本名ピエール・エイロー。船乗りの家系に生まれたが、8歳のときに事故で片目を失明したことから家業を継ぐことを断念させられた。船乗りをあきらめたころから読書に夢中になり、とくに推理小説を好むようになる。とりわけ成人してからジョルジュ・シムノンに感銘を受けた。推理作家志望ではなかったものの、1945年に個人的な趣味でシムノンのパスティーシュ(パロディ)小説を書いてみたことがきっかけとなり、さまざまな推理作家を模倣したパスティーシュ小説を執筆。これらの作品は、ナルスジャック自身は出版する意図はなかったものの、新興出版社を設立した友人の目に留まって翌年の1946年に出版され、好評だったことからその後も第2巻、第3巻が刊行された。これらのパスティーシュ小説は、日本においては『贋作展覧会』として一部の作品を抜粋して翻訳出版されている。このころナルスジャックは大学の哲学教授をつとめていたため、推理小説の出版に本名を使うのは差しさわりがあったことから、少年時代に過ごした二つの村「サン=トーマ村」「ナルスジャック村」からヒントを得た「トーマ・ナルスジャック」というペンネームを作り、短編集出版後には推理小説に関する評論を発表。その後もいわゆる本格派に属する推理小説を執筆した。推理作家としてのナルスジャックを見出してくれた友人の出版社はその後まもなく倒産してしまうが、ナルスジャックは他の出版社に移籍し、船乗りの家系に育った知識をもとに海を舞台とする推理小説を連作するなど方向性の転換を模索した[1]

1948年、トーマ・ナルスジャックが『死者は旅行中』で冒険小説大賞を受賞。ナルスジャックはその受賞パーティで、文通相手のピエール・ボワローと初めて面会した。二人は推理小説についての熱い議論を交わしあい、その後生涯にわたる友情を結ぶこととなる[1]

そして1952年、ボワローとナルスジャックは共同で推理小説を執筆する。合作第1作『悪魔のような女』では、二人のそれまでの本格謎解きとは趣向を変えた。探偵や刑事による捜査の描写を切り捨て、犯罪者の心理を中心におきつつ、ロマン・ノワールに描かれるような肉体的な暴力ではなく、幻想的な謎の解明を描いた、恐怖小説的な展開の推理スリラーとなっていた。当初はいくつもの出版社に原稿を持ち込むたびに拒絶されたものの、推理小説で名高いパリのドノエル書店から出版されるとたちまち評判となり、アンリ=ジョルジュ・クルーゾー監督による映画化も世界的な大ヒットとなった。1954に発表された合作第3作『死者の中から』はアルフレッド・ヒッチコック監督によって『めまい』(1958年)として映画化され、原作者ボワロー=ナルスジャックの名声も確かなものとなった。

以降はボワロー=ナルスジャックのコンビによるサスペンス小説を数多く発表。1989年にボワローが亡くなるまでコンビは続いた。ボワローの死後も数作のプロットが残されたために、ナルスジャックが小説として完成させ、ボワローの死から2年後の1991年までボワロー=ナルスジャック名義の新作が刊行された。

ボワロー=ナルスジャックが切り開いた推理小説の新しい手法は、その後のフランスの推理作家のルイ・C・トーマ、ユベール・モンテイエセバスチアン・ジャプリゾなどに影響を与えたほか、日本においても泡坂妻夫連城三紀彦皆川博子などに影響を及ぼした。一方でカトリーヌ・アルレーは、ボワロー・ナルスジャックの作風に対して批判的な意見を述べている[1]

合作のスタイルを聞かれると二人は「ボワローが骨で、ナルスジャックが肉なのだ」と語っている。これはつまり、ボワローが主にプロットを考え、ナルスジャックが文学的に発展させるという形式をとっていたということである[1]。執筆に関しては、ナルスジャックが主導しながら二人で文章を整えていたとされる。また、二人は映画脚本家としてもいくつかのフランス映画に協力し、とりわけジョルジュ・フランジュ監督の名作ホラー映画『顔のない眼』(1960年)においては、ボワロー=ナルスジャックの脚本参加が作品の方向性に決定的な影響を与えた。当初プロデューサーが意図した通俗的怪奇映画としての方向性を避け、ボワロー=ナルスジャックはシナリオの重点を、マッド・サイエンティストの医師よりもその娘クリスティーヌへとずらすことで、抒情的なタッチをもつ恐怖映画へと導いた[2]

ボワロー=ナルスジャックの推理小説は、日本においては1979年の『銀のカード』までは順調に翻訳が出版されていたが、1980年のLes intouchables及びTerminus以降はまったく翻訳されなくなった。日本で未訳となっている晩年の作品においては、かつての彼らの作品を特徴づけていた幻想的な謎や強烈なスリルは影をひそめ(ただし1987年の"Mr. Hyde"は怪奇的な謎を扱った作品)、より文学を志向した心理ドラマ中心のサスペンス小説が主流となっている。
ボワロー=ナルスジャック作品
長編

『悪魔のような女』1952年(
北村太郎訳 早川書房 世界探偵小説全集 1955年 のち文庫)

『影の顔』1953年(三輪秀彦訳 早川書房 世界探偵小説全集 1958年 のち文庫)

『死者の中から』 D'entre les morts 1954年(日影丈吉訳 早川書房 世界探偵小説全集 1958年 のち文庫)(別題『めまい』 Sueurs froides [3]太田浩一訳 パロル舎 2000年)

『牝狼』1955年(岡田真吉訳 東京創元社 1957年 現代推理小説全集 のち世界名作推理小説大系)

『女魔術師』1957年(江口清訳 1961年 創元推理文庫)

『思い乱れて』1959年(大久保和郎訳 1959年 創元推理文庫)

『技師は数字を愛しすぎた』1959年(大久保和郎訳 1960年 創元推理文庫)

『呪い』1961年(大久保和郎訳 1963年 創元推理文庫)

『仮面の男』1962年(井上勇訳 1964年 創元推理文庫)

『犠牲者たち』1964年(石川湧訳 1967年 創元推理文庫)

『私のすべては一人の男』1965年(中村真一郎訳 早川書房 1967年 ハヤカワ・ノヴェルズ)

『青列車は13回停る』1966年(北村良三訳 早川書房 1968年 世界ミステリシリーズ

『死はいった、おそらく…』1967年(大友徳明訳 早川書房 1971年 世界ミステリシリーズ)

『海の門』1969年(荒川比呂志訳 早川書房 1970年 世界ミステリシリーズ)

『嫉妬』1970年(谷亀利一訳 早川書房 1974年 世界ミステリシリーズ)

『砕けちった泡』1972年(荒川比呂志訳 早川書房 1974年 世界ミステリシリーズ)

『殺人はバカンスに』1973年(荒川浩充訳 早川書房 1975年 世界ミステリシリーズ)

『わが兄弟、ユダ』1974年(佐々木善郎訳 早川書房 1979年 世界ミステリシリーズ)

『すりかわった女』1975年(荒川浩充訳 早川書房 1978年 世界ミステリシリーズ)

『ひそむ罠』1976年(伊東守男訳 早川書房 1982年 世界ミステリシリーズ)


次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:43 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef