ボルチモア・オリオールズ_(19世紀)
[Wikipedia|▼Menu]
1896年のボルチモア・オリオールズ。中央でスーツを着ているのが監督のネッド・ハンロン、最前列右から二人目がウィリー・キーラー、最前列左から二人目がジョン・マグロー

ここでは、1882年から1899年にかけて、メリーランド州ボルチモアを本拠地としてアメリカン・アソシエーションナショナルリーグに加盟していたボルチモア・オリオールズ(Baltimore Orioles)について記述する。
球団史
アメリカン・アソシエーション時代

1882年アメリカン・アソシエーション創設に合わせてチームが作られた。最初の5年間は、うちリーグ最下位が4度と勝てないチームだった。成績がようやく上向いてきたのは1887年からで、前年にノーヒットノーランを達成したマット・キルロイが46勝を上げリーグの最多勝のタイトルを獲得し、同年初めて3位にまで浮上した。その後チームは1889年シーズン終了後に一度リーグを脱退し、マイナーのアトランティック・アソシエーションに参加していた。しかし1890年のシーズン中にブルックリン・グラディエイターズが解散したため、オリオールズはその穴を埋める形で再度リーグに復帰した。この頃はフィラデルフィアから移籍してきたセイディー・マクマホンが1890年と1891年の2年続けての最多勝投手になっている。1891年を最後にアメリカン・アソシエーションは消滅、オリオールズはナショナルリーグに移籍する。
ナショナルリーグ時代

ナショナルリーグに移籍した1892年にチームの成績は46勝101敗と大きく落ち込むが、同年監督となったネッド・ハンロンの元でチームは徐々に再建のための戦力を蓄えた。同年にピッツバーグからジョー・ケリーを獲得、1893年にはヒューイー・ジェニングスをトレードで加入させ、1894年1月にはブルックリンとのトレードでダン・ブローザースウィリー・キーラーを獲得する。一方で1891年にデビューしたジョン・マグローと監督のハンロンは勝つための様々な戦術(内野手のカットオフ・プレーやヒットエンドランの戦略化、『ボルチモア・チョップ』と呼ばれた地面に叩きつける打法など)を考案したことなどで、それまで長く低迷していたチームは1894年にナショナルリーグを制覇、1896年まで3連覇を成し遂げる。その後2年もリーグ2位とその強さを示していた。この頃オリオールズに在籍していた選手からは、後に何人ものアメリカ野球殿堂入り選手や監督が輩出されている。
球団の解体

1898年、当時のオーナーだったハリー・フォン・デル・ホーストは、球団運営でより高い収益を得ようと、ブルックリン・スパーバス(現ロサンゼルス・ドジャース)の株式を得て経営に参加、オリオールズと2つの球団の経営を掛け持ちしたことで、オリオールズの主力選手が揃ってブルックリンに移籍する事態が起きた[1]。この時マグローはブルックリンへの移籍を拒み、翌1899年にオリオールズの兼任監督となる。マグローは既に主力を失って弱体化したチームを率い、リーグ4位と健闘した。しかし1人のオーナーによる複数球団の掛け持ち経営が問題視されたことで、ホーストは同年を最後にオリオールズを解体することになった。
戦績

年度リーグ試合勝利敗戦勝率順位監督本拠地
1882年AA741954.2606位ヘンリー・マイヤーズNewington Park
1883年962868.2928位ビル・バーニー
Oriole Park
1884年1086343.5946位ビル・バーニー
1885年1104168.3768位ビル・バーニー
1886年1394883.3668位ビル・バーニー
1887年1417758.5703位ビル・バーニー
1888年1375780.4165位ビル・バーニー
1889年1397065.5195位ビル・バーニー
1890年381519.4416位ビル・バーニー
1891年1397164.5264位ビル・バーニーUnion Park
1892年NL15246101.31312位ジョージ・バン・ホルトレン
ジョン・ワルツ
ネッド・ハンロン
1893年1306070.4628位ネッド・ハンロン
1894年1298939.6951位ネッド・ハンロン
1895年1328763.6691位ネッド・ハンロン
1896年1329039.6981位ネッド・ハンロン
1897年1369040.6922位ネッド・ハンロン
1898年1549653.6442位ネッド・ハンロン
1899年1528662.5814位ジョン・マグロー

所属した主な選手
投手


マット・キルロイ:通算141勝133敗。1887年にリーグ最多の46勝を挙げた。

セイディー・マクマホン:通算173勝127敗。1890年、1891年と2年連続リーグ最多勝利。

ジョー・マクギニティ:1899年にオリオールズでデビュー、同年28勝で最多勝利投手になった。

野手


ジョン・マグロー:1898年、1899年最多得点。後に監督として大成する。

ウィルバート・ロビンソン:捕手。後に監督としてアメリカ野球殿堂入り。

ジョー・ケリー:1896年に最多盗塁。

ヒューイー・ジェニングス:通算打率.313。後年監督としてデトロイト・タイガースをリーグ3連覇に導く。

ウィリー・キーラー:外野手。1894年から1900年まで8年連続200安打。首位打者2回。

トミー・タッカー:1889年に打率.372で首位打者。リーグ最多死球も5度記録した。

主な球団記録
球団記録


ナショナルリーグ優勝:3回(1894-1896年)

打撃記録


通算安打数:1097(ウィリー・キーラー)

通算本塁打:40(ジョー・ケリー)

通算打点数:653(ジョー・ケリー)

通算盗塁数:369(ジョン・マグロー)

投手記録


通算勝利数:130(セイディー・マクマホン)

通算奪三振:1082(マット・キルロイ)

無安打試合

1886年10月6日(マット・キルロイ)

1893年8月16日(ビル・ホーク)[2]

1898年4月22日(ジェイ・ヒューズ)


脚注^ 当時2つの球団をオーナーが掛け持ちする事例は他にもあり、ルイビル・カーネルズのオーナーだったバーニー・ドレイファス1899年ピッツバーグ・パイレーツの経営に参加する際主力選手をパイレーツに移している。またクリーブランド・スパイダーズのオーナーだったロビンソン兄弟も、同様にセントルイス・パーフェクトズ(現カージナルス)へ主力選手を移し2球団の経営を掛け持ちしていた。ただいずれのケースも主力選手を失った球団はすぐ破綻してしまった。
^ 投手?本塁間が現在と同じ距離(60フィート6インチ)にルールが改訂されて以降、初めての無安打試合。

関連項目

ボルチモア・チョップ

出典・外部リンク

チーム戦績 (Baseball Reference)

Franchises (Retrosheet)

Franchise Info(www.kypris.com)

Circle Change野球史関連コラム





次ページ
記事の検索
おまかせリスト
▼オプションを表示
ブックマーク登録
mixiチェック!
Twitterに投稿
オプション/リンク一覧
話題のニュース
列車運行情報
暇つぶしWikipedia

Size:25 KB
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
担当:undef