ここでは、1882年から1899年にかけて、メリーランド州ボルチモアを本拠地としてアメリカン・アソシエーションとナショナルリーグに加盟していたボルチモア・オリオールズ(Baltimore Orioles)について記述する。 1882年のアメリカン・アソシエーション創設に合わせてチームが作られた。最初の5年間は、うちリーグ最下位が4度と勝てないチームだった。成績がようやく上向いてきたのは1887年からで、前年にノーヒットノーランを達成したマット・キルロイが46勝を上げリーグの最多勝のタイトルを獲得し、同年初めて3位にまで浮上した。その後チームは1889年シーズン終了後に一度リーグを脱退し、マイナーのアトランティック・アソシエーションに参加していた。しかし1890年のシーズン中にブルックリン・グラディエイターズが解散したため、オリオールズはその穴を埋める形で再度リーグに復帰した。この頃はフィラデルフィアから移籍してきたセイディー・マクマホンが1890年と1891年の2年続けての最多勝投手になっている。1891年を最後にアメリカン・アソシエーションは消滅、オリオールズはナショナルリーグに移籍する。 ナショナルリーグに移籍した1892年にチームの成績は46勝101敗と大きく落ち込むが、同年監督となったネッド・ハンロンの元でチームは徐々に再建のための戦力を蓄えた。同年にピッツバーグからジョー・ケリーを獲得、1893年にはヒューイー・ジェニングスをトレードで加入させ、1894年1月にはブルックリンとのトレードでダン・ブローザースとウィリー・キーラーを獲得する。一方で1891年にデビューしたジョン・マグローと監督のハンロンは勝つための様々な戦術(内野手のカットオフ・プレーやヒットエンドランの戦略化、『ボルチモア・チョップ』と呼ばれた地面に叩きつける打法など)を考案したことなどで、それまで長く低迷していたチームは1894年にナショナルリーグを制覇、1896年まで3連覇を成し遂げる。その後2年もリーグ2位とその強さを示していた。この頃オリオールズに在籍していた選手からは、後に何人ものアメリカ野球殿堂入り選手や監督が輩出されている。 1898年、当時のオーナーだったハリー・フォン・デル・ホースト 年度リーグ試合勝利敗戦勝率順位監督本拠地
球団史
アメリカン・アソシエーション時代
ナショナルリーグ時代
球団の解体
戦績
1882年AA741954.2606位ヘンリー・マイヤーズNewington Park
1883年962868.2928位ビル・バーニーOriole Park
1884年1086343.5946位ビル・バーニー
1885年1104168.3768位ビル・バーニー
1886年1394883.3668位ビル・バーニー
1887年1417758.5703位ビル・バーニー
1888年1375780.4165位ビル・バーニー
1889年1397065.5195位ビル・バーニー
1890年381519.4416位ビル・バーニー
1891年1397164.5264位ビル・バーニーUnion Park
1892年NL15246101.31312位ジョージ・バン・ホルトレン
ジョン・ワルツ
ネッド・ハンロン
1893年1306070.4628位ネッド・ハンロン
1894年1298939.6951位ネッド・ハンロン
1895年1328763.6691位ネッド・ハンロン
1896年1329039.6981位ネッド・ハンロン
1897年1369040.6922位ネッド・ハンロン
1898年1549653.6442位ネッド・ハンロン
1899年1528662.5814位ジョン・マグロー
所属した主な選手
投手
マット・キルロイ:通算141勝133敗。1887年にリーグ最多の46勝を挙げた。
セイディー・マクマホン:通算173勝127敗。1890年、1891年と2年連続リーグ最多勝利。
ジョー・マクギニティ:1899年にオリオールズでデビュー、同年28勝で最多勝利投手になった。
野手
ジョン・マグロー:1898年、1899年最多得点。後に監督として大成する。
ウィルバート・ロビンソン:捕手。後に監督としてアメリカ野球殿堂入り。
ジョー・ケリー:1896年に最多盗塁。
ヒューイー・ジェニングス:通算打率.313。後年監督としてデトロイト・タイガースをリーグ3連覇に導く。
ウィリー・キーラー:外野手。1894年から1900年まで8年連続200安打。首位打者2回。
トミー・タッカー
主な球団記録
球団記録
ナショナルリーグ優勝:3回(1894-1896年)
打撃記録
通算安打数:1097(ウィリー・キーラー)
通算本塁打:40(ジョー・ケリー)
通算打点数:653(ジョー・ケリー)
通算盗塁数:369(ジョン・マグロー)
投手記録
通算勝利数:130(セイディー・マクマホン)
通算奪三振:1082(マット・キルロイ)
無安打試合
1886年10月6日(マット・キルロイ)
1893年8月16日(ビル・ホーク)[2]
1898年4月22日(ジェイ・ヒューズ)
脚注^ 当時2つの球団をオーナーが掛け持ちする事例は他にもあり、ルイビル・カーネルズのオーナーだったバーニー・ドレイファスは1899年にピッツバーグ・パイレーツの経営に参加する際主力選手をパイレーツに移している。またクリーブランド・スパイダーズのオーナーだったロビンソン兄弟も、同様にセントルイス・パーフェクトズ(現カージナルス)へ主力選手を移し2球団の経営を掛け持ちしていた。ただいずれのケースも主力選手を失った球団はすぐ破綻してしまった。
^ 投手?本塁間が現在と同じ距離(60フィート6インチ)にルールが改訂されて以降、初めての無安打試合。
関連項目
ボルチモア・チョップ
出典・外部リンク
⇒チーム戦績 (Baseball Reference)
⇒Franchises (Retrosheet)
⇒Franchise Info(www.kypris.com)
⇒Circle Change野球史関連コラム