ボルコ1世スロヴィ
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ボルコ1世スロヴィ
Bolko I Surowy
ルヴヴェク

ヤヴォル
シフィドニツァ=ジェンビツェ公
ボルコ1世の印璽、1298年
在位ルヴヴェク公:1278年 - 1281年1286年 - 1301年
ヤヴォル公:1278年 - 1301年
シフィドニツァ=ジェンビツェ公:1291年 - 1301年

出生1252/6年

死去1301年11月9日

配偶者ベアトリクス・フォン・ブランデンブルク
子女一覧参照
家名シロンスク・ピャスト家
父親レグニツァ公ボレスワフ2世ロガトカ
母親ヘートヴィヒ・フォン・アンハルト
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ボルコ1世スロヴィ(Bolko I Surowy, 1252年/1256年 - 1301年11月9日)は、ルヴヴェク公(在位:1278年 - 1281年、弟ベルナルト・ズヴィヌィと共同統治)、ヤヴォル公(在位:1278年 - 1301年、1281年までベルナルトと共同統治)、単独のルヴヴェク公(在位:1286年 - 1301年)、シフィドニツァ=ジェンビツェ公(在位:1291年 - 1301年)。レグニツァ公ボレスワフ2世の次男、母はアンハルト伯ハインリヒ1世の娘ヘートヴィヒ。スロヴィ(Surowy)は「厳格さ」を意味する異称。他に「未熟さ、粗野」を意味するスロギ(Srogi)という異称も知られる。
生涯
ヴロツワフ公との関係

政治に参加するには若すぎたためと思われるが、ボルコは父が死ぬまで年代記には滅多に登場しない。1277年にレグニツァ公一族が勝利したストレツの戦いに、公子ボルコも参加しただろう。

ボレスワフ2世は1278年12月26日に亡くなった。ボルコ1世と弟のベルナルトはヤヴォルとルヴヴェクを与えられ、これを共同で統治することになった。兄ヘンリク5世レグニツァを保持した。1281年にボルコとベルナルトは領地を分割し、ボルコはヤヴォルの、ベルナルトはルヴヴェクを得て、それぞれ単独統治を開始した。

単独統治者とのしてボルコ1世が抱えた最初の問題は、従弟のヴロツワフ公ヘンリク4世の勢力拡大に対して、自分の持つ小公国をどのように守るかということだった。最終的にボルコ1世が頼ったのはブランデンブルク辺境伯達だった。彼らとの同盟関係を確固たるものにするため、ボルコ1世はブランデンブルク=ザルツヴェデル辺境伯オットー5世の娘ベアトリクスとの結婚を考えるようになった。婚約は1279年4月14日、シュパンダウで成立した。しかし新郎新婦は親族関係にあったため、結婚は1284年まで引き延ばされた(但し教皇の認可が下りたのは翌1285年であった)。アスカーニエン家とのこの結びつきのため、ボルコ1世はローマ王ルドルフ1世とヘンリク4世との紛争に否応なく巻き込まれた。ボルコ1世は1280年にヴロツワフに、翌1281年にはプラハに遠征を行ったが、これは徒にヘンリク4世からの報復を招いただけであった。グリュッサウにあるボルコ1世の墓石の肖像を元に、19世紀に中世の彩色の復元を試みたリトグラフ

1286年に弟ベルナルトが子供を残さず死ぬと、1281年頃に結んだ互恵的な相続協定に則り、ボルコ1世は弟の遺領ルヴヴェク公国を相続した。

1280年代後半、ボルコ1世はさらに強大化していくヘンリク4世の脅威をかわそうと試み、やがてボヘミア王ヴァーツラフ2世に接近し始めた。ボルコは何度かプラークを訪問して多くの宮廷儀式に出席しており、1289年、ビトム公カジミェシュがボヘミア王に臣従の礼をとった際の儀式にも居合わせている。しかしボルコ1世自身はボヘミアによる支配には強く抵抗したため、ボヘミアから大した利益を受けることは出来なかった。利益はボヘミア国境の要衝ションベルク城を入手できた程度である。

1290年、ヘンリク4世の思いがけない急死は、シロンスクの情勢を一変させた。ボルコ1世の兄ヘンリク5世はヴロツワフを占領してヴロツワフ公国全域を支配下に収めるのに成功したが、ヴロツワフの貴族たちの反発や、法定相続人であるグウォグフ公ヘンリク3世からの公国譲渡要求に直面した。ボルコ1世は兄を支援することを決めたが、相当の代償を要求した。ヘンリク5世からシフィドニツァ、ゾンプコヴィツェ、ジェンビツェ、スチェリンを譲渡された後、ボルコ1世はヴロツワフとレグニツァに軍勢と食糧を送った。しかしヘンリク5世が受け取った支援は十分とは言い難かった。結局、ヘンリク5世はヘンリク3世に敗れて鉄籠に入れられた。ボルコ1世はヘンリク5世不在のため兄の公国を摂政を務めたが、そのあいだ兄を開放するよう敵方に働きかけることはなかった。
ボヘミアとの戦争

1290年代はまた、ボルコ1世にとって隣国ボヘミア王国との関係悪化に悩まされた時期だった。両者の関係がなぜ悪化したのかは不明だが、彼の野心が原因だったとされる。ボルコ1世は領土防衛のため、公国での集中的な要塞建設を断行した(特にボヘミアとの国境付近であるシフィドニツァ、ヴレン、スチェゴム、カミェンナ・グラなどが得に強化対象だった)。この後、ボルコ1世はヘンリク4世がヴロツワフ司教区に与えていたニサ=オトムフフ公国の支配権を奪取しようと試みた。

ボルコ1世の傲慢な野心に怒ったヴロツワフ司教ヤン・ロムカは、公爵に対して自分の使える最大の切り札を使った。1294年、ボルコ1世は破門され、その全領土が職務停止状態に置かれた。この強硬措置に屈し、ボルコ世は自分の要求を撤回し、占拠していた司教館を解放せざるを得なくなった。

ボルコ1世とボヘミア王ヴァーツラフ2世との緊張関係は続き、1295年には両者は交戦状態に陥った。ボヘミア王は敵が大した抵抗を見せることはないと考えていたが、ヤヴォル公の堅固な防衛戦展開に直面して驚かされることになった。このボヘミアとの戦争において、ボルコ1世は自らが築いた要塞を効果的に使うことができ、カミェンナ・グラの要塞でボヘミア軍を足止めした。さらにボルコ1世は巧妙な政治家としての面も発揮した。


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