ボリビアの歴史
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ボリビアの歴史(Historia de Bolivia,History of Bolivia)では、南アメリカ大陸中央部に位置する共和制国家であるボリビア多民族国を構成する地域の歴史について詳述する。
概要

アンデスの高地とその東の亜熱帯、熱帯地方の低地から成るボリビアは、チチカカ湖畔を中心に先史文明が栄えた。15世紀に入るとインカ帝国の領土となり、スペインの侵攻後はアルト・ペルーと呼ばれポトシ銀山を中心とした鉱業が発展した。1825年に独立を果たしたが政局が安定せず、チリとの間で1879年に始まる太平洋戦争にて太平洋岸の領土を失った。ブラジルとの国境紛争にも敗れ、領土の一部を失うこととなった。

世界恐慌に続き、1932年に始まるチャコ戦争の敗北により国土は疲弊し、政権を巡るクーデターが続いた。1952年、ビクトル・パス・エステンソロによりボリビア革命が実施されるが、生産活動の停滞やインフレが進行し、失敗に終わる。軍事政権、保守政権、文民政権の入り乱れるクーデターが繰り返されつつ、複雑で多様な変化を続けながら今日に至っている。
先史時代

ボリビアの考古学的研究はほとんどなされておらず、紀元前1500年ごろにチチカカ湖南東岸に出現したチリパ文化以前の詳しい歴史についてはわかっていない[1]。しかし周辺国の考古学調査や一部遺跡から出土した尖頭器などから、ヴュルム氷期の末には既に人類がなんらかの形でチチカカ湖周辺に定着していたであろうと考えられている[1][注釈 1]ポンセの石像

湖水資源はその後も人類の生活の中心として機能し、チリパ文化へとつながっていった[注釈 2]。紀元前1500年から紀元前1000年の前期では湖岸の動植物の採取・狩猟による生活が営まれており、紀元前800年までの中期にはラクダ科動物の飼育や農耕などが興った。紀元前800年から紀元前250年にかけての後期に入ると祭事儀礼が開始され、基壇や地下式広場といった遺構を見ることができる[2]太陽の門

紀元前200年に入るとチチカカ湖東岸のティワナク遺跡を中心としたティワナク文化が出現する。この文化は1150年ごろまで続いたと見られ、特にIII期と呼ばれる300年から500年にかけては大型祭祀建造物が出現するなど大きな発展を見せた[2]。ティワナクの地は高度4000メートルという高地にあったことから温暖な東部のコチャバンバや鉱物資源の豊富な南部のアタカマ砂漠方面へと拡大を見せ、周辺地域に大きな影響を与えた。こうした影響は太陽の門やポンセの石像に見られるトゥヌパや鳥人といった文様がワリ文化などへ波及していることからもうかがえる[3][4]。ただし、こうした進出が直接的支配のもとに行われたものなのか、交易等を含めた間接的な接触であったのかについては結論が出ていない[3]

15世紀後半にはいるとケチュア族がおこしたインカ帝国による征服がはじまり、ボリビアの地はコリャ・スウユの一部に組み込まれた[注釈 3]。帝国の一領土となったことから現在の公用語のひとつとなっているケチュア語が普及し、高度な都市文明が栄えた。この時期の遺跡からは極めて高度な技術水準の建造物や遺物が発見されている[5]
植民地時代16世紀のポトシ銀山詳細は「スペインによるアメリカ大陸の植民地化」を参照

スペインによるボリビア地域の征服は、1533年コンキスタドールであるフランシスコ・ピサロディエゴ・デ・アルマグロらによりインカ帝国が滅ぼされたところにはじまる[6]。スペインはエンコミエンダの制度の下に征服した地域を植民地化し、ボリビア地域はペルー副王領の管轄下に置かれ、アルト・ペルーと呼称された。

1545年、原住民ディエゴ・ワルパによってボリビア南部でポトシ銀山が発見された[注釈 4]。この知らせは瞬く間にペルー全土を駆け巡り、ポトシ山麓のカントゥマルカの原住民集落近辺に鉱山業者たちの雑居が誕生した[7][注釈 5]。この銀山の発見以降、ポトシはアルト・ペルーの支配のみならず、新大陸の経済と権力の中心地として機能するようになった[7]。1570年代までには銀の道と呼ばれるリマからクスコを経てポトシへ至る道路が整備され、多くの人と物がポトシへ集中するようになり、特に16世紀末から17世紀前半にかけては12万人から16万人が居住する西半球で最大の都市へと発展した[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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