ボリショイ劇場
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ボリショイ劇場

ボリショイ劇場のファサード。かつては双頭の鷲のレリーフがある部分に「地球儀と鎌とハンマー」の社会主義を象徴するマークがあった。
情報
種別歌劇場
開館1776年 (1776)
収容人員2150人
所在地 ロシア モスクワ劇場広場,建物1(Театральная пл., дом 1)
位置座標: .mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct,.mw-parser-output .geo-inline-hidden{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯55度45分37秒 西経37度37分07秒 / 北緯55.76028度 西経37.61861度 / 55.76028; -37.61861
外部リンク ⇒http://www.bolshoi.ru/en/
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ボリショイ劇場 (: Большой театр、: Bolshoi Theatre、正式名称: 国立アカデミー・ボリショイ劇場 〔ロシア語: Государственный академический Большой театр России[1]〕) は、ロシアモスクワにある劇場。ロシアを代表するバレエオペラ劇場(歌劇場)である。「ボリショイ」とはロシア語で「大きい」を意味し、単純には「大劇場」。ロシア国内のいくつかの都市には複数の劇場が存在し、大きなものをボリショイ劇場と呼び、小さいものをマールイ劇場と呼ぶ慣習がある。ロシア国外では、一般に「ボリショイ劇場」と言った場合はモスクワのボリショイ劇場を指す。
沿革帝政時代 (1856年

1776年ピョートル・ウルソフ(Petr Urussov)公爵とマイケル・マドックス(Michael Maddox)によって、ウルソフ公爵邸でオペラやバレエ、ドラマの上演が行われたことがボリショイ劇場の起源であるとされる。その後1780年モスクワ・モホヴァヤ通りのパシュコーフ邸を得て、ペトロフカ劇場(Petrovka Theatre またはペトロフスキー劇場)を専属の劇場とする。この劇場で演劇とオペラを制作・発表するようになった。

やがて帝室劇場の管理下に置かれるが、現在のボリショイ劇場の建物を得るまで計3回の火災に見舞われる。1805年の火災でアルバート通りの新アルバート帝国劇場に移転するものの、この劇場も1812年ナポレオンモスクワ侵攻の際、モスクワ大火で焼失した。ソ連時代 (1932年2月)

1825年現在のテアトラーリナヤ広場(Teatralnaya Square 劇場広場)の敷地にA.ミハイロフ、オシップ(イオアン)・イワノヴィッチ・ボヴェ(Osip Ivanovich Bove)の設計のもと、建設された。尚、これに先立つ1824年ボヴェは、マールイ劇場(「小さい劇場」の意)を建設している。ボリショイ劇場は1825年1月18日落成し、当初、ロシアの作品のみを上演し、外国人の曲目、作品が上演されるようになるのは1840年を待たなければならなかった。しかしこのロシア古典主義様式に基づく劇場も1853年に火災に遭い、甚大な被害を受けた。1856年アリベルト(アルベルト)・カヴォス(Albert Kavos, オペラ作曲家カッテリーノ・カヴォスの息子)によって焼け残った正面列柱と壁面を生かして改修工事が行われた結果、現在の劇場が完成した。また、この改修工事の際に正面破風の上に彫刻家ピョートル・クロット=フォン=ユルゲンスブルク(ロシア語版・英語版)による太陽神アポロンクアドリガ(四頭立て馬車)の彫刻に換えられた。

1941年6月に独ソ戦が始まると、夏までにモスクワ市内中心部の重要施設にはドイツ軍攻撃から守るためのカモフラージュが施された。当劇場もそのひとつであったが、10月28日の空襲で500 kg爆弾1発がファサードに直撃し、ロビーまでもが吹き飛ばされた。被害は大きく再建に約2年を要したが、1943年の新シーズン開幕には間に合い、「皇帝に捧げた命」(イワン・スサーニン)の上演で営業を再開した[2]

ボリショイ劇場の施設は、観客席数6層2,150席をホールに有する。2002年11月に1,000人を収容できる小劇場(ボリショイ劇場新館)が建設された。

2005年7月1日からボリショイ劇場本館は老朽化の進んだホールを修復するため閉鎖され、6年の歳月と200億ルーブル(現在のレートで約470億円)以上を投入し大規模改修が行なわれた。この間、本館におけるバレエ、オペラは上演が中止され、ボリショイ劇場新館と、クレムリンのクレムリン大会宮殿などで行われた。2011年10月28日、再開。バレエのこけら落とし公演はチャイコフスキーの「眠れる森の美女」が上演された[3]。こけら落とし直前に、ボリショイバレエの男性ダンサーの一人ニコライ・ツィスィカリゼが「ボリショイ劇場の修復は金箔の代わりにペンキが、装飾プラスチックが使用されており、さらに天井が低くバレリーナが頭をぶつけそうだ。もはや文化的破壊」と批判する発言をした[4]。修復工事を2009年から請け負ったSumma Capitalのオーナーであるw:Ziyavudin Magomedovはドミートリー・メドヴェージェフ大統領(当時)と密接な関係にあり、さらにウラジーミル・プーチン首相(当時)とも個人的な付き合いがある。

メドヴェージェフ大統領を迎えての修復完了記念セレモニーではニコライ・ツィスィカリゼの姿はなくスヴェトラーナ・ザハーロワスポークスパーソンとして挨拶をした。彼女は与党統一ロシアの党員である。
ロシア軍支援公演

ボリショイ劇場は2022年ロシアのウクライナ侵攻から一ヶ月を経た4月1日、「ロシアのウクライナにおける特別軍事作戦(the special military operation)を支援する大規模なチャリティー公演を行う」と発表。収益は戦火で亡くなったロシア軍家族へ送るとした。主催はロシア文化省[5]。公演は4月2,4,6日。戦火の状況として4月3日は、ウクライナの首都キエフ近郊の街ブチャ(bucha)においてロシア軍による400人を超える民間人への虐殺(ブチャの虐殺)が露わになり、欧米の対ロシア制裁強化へ向けた動きがあった戦況下であり、ボリショイ劇場の立ち位置が現れたイベントとなった。
オペラとボリショイ・バレエボリショイ劇場の内部

ボリショイ劇場は管弦楽団とバレエ団を有している。ボリショイ劇場におけるオペラとバレエは、19世紀ロシア帝国の強大化を背景に、国民楽派の隆盛や西ヨーロッパのバレエ作品の上演によって西欧に比肩するものに成長していった。ただしバレエについては、帝政時代には、宮廷のあるサンクトペテルブルクマリインスキー劇場に遅れをとらざるを得なかった。ボリショイ劇場が名実ともに世界にロシアを代表する歌劇場となる転機となったのがロシア革命である。ボリショイ劇場はソ連政府の国立劇場となり、(ソビエト連邦共産党の)全面的な援助、後援を受けると共に、政府の統制下に置かれることとなる。
オペラ

ボリショイ劇場ではロシアを代表する大作曲家のオペラ、楽曲が公演されてきた。特に19世紀から20世紀にかけて、国民楽派の勃興、グリンカロシア5人組に代表される音楽家の出現によって彼らの手になるオペラの上演が行われた。また、チャイコフスキーは、交響的バラード 作品78 「地方長官 (Voyevode)」 をラフマニノフはオペラ 『アレコ』、『フランチェスカ・ダ・リミニ』 をボリショイ劇場で公演している。さらにこうしたオペラを後押ししたのが、ボリショイ劇場所属の歌手たちで、フョードル・シャリアピンを筆頭に名歌手の演技が評価されることとなった。ボリショイ・バレエ団による 『白鳥の湖』 (2006年)
ボリショイ・バレエ詳細は「ボリショイ・バレエ」を参照


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