ボヘミアガラス(英語: Bohemian glass)は、ガラスを加工するチェコの伝統産業のひとつ。 緑のソーダガラスを使った安価な日用品から、丹念なカットと彫り込みが施された高級品のクリスタルガラスまで、様々な種類の製品が存在する[1]。ボヘミア(チェコ西部)産の木灰からとれたカリ(炭酸カリウム)を原料とする無色透明のカリガラス、17世紀に考案された彫り込み(エングレーヴィング、グラヴィール彫刻)がボヘミアガラスの特徴である[2]。銅製の回転盤による浮き彫り、研磨、カットに適したカリガラスによって、独特の特徴が確立されている[3]。 カリ分を主成分とする木灰は、ナトリウム分を主成分とするソーダ灰よりもガラスの透明度を高め、屈折率を大きくする働きがある[4]。適量の酸化マンガンを加えることで、原料に含まれる鉄分から生じる青緑色がガラスから除かれ、無色透明のガラスが作られる[5]。 ボヘミアでガラスの製造が盛んに行われた理由には、ボヘミアはシリカの原料、るつぼに使用する粘土や窯の素材となる岩石にも富んでいたことも挙げられる[6]。また、ヴルタヴァ川(モルダウ川)やエルベ川などのボヘミアを通る河川はガラスの材料と完成した製品の流通路となり、器具の動力となる水車の利用を助けた[6]。 ボヘミアにおけるガラス工芸の歴史は、13世紀に遡る[2][3]。12世紀のボヘミアでは教会で使用されるステンドグラスが作られていたが、世俗社会との関係は低く、一般向けのガラス容器が作られるのは13世紀に入ってからである[7]。 13世紀のボヘミアにはヴェネツィアからガラスの製造技術が伝えられていたが、ガラス産業の規模は小さかった[8]。中世のボヘミアで生産されたガラスは森林地帯で作られる厚手のヴァルトグラス 14世紀末から15世紀初頭のボヘミアでは、主にビザンチングラス
特徴
歴史
黎明期
ボヘミアガラスの特徴の確立
プラハを帝国の首都とした神聖ローマ皇帝ルドルフ2世は学芸の保護者として知られ、特にガラス工芸を熱心に保護した[4]。17世紀前半にプラハの宝石カッティング職人カスパル・レーマン(Caspar Lehmann)によって、銅やブロンズ製の回転砥石で宝石をカットするエングレーヴィング技術のガラス細工への応用が考案される[12]。従来のヴェネツィア式のエナメルを使用した絵柄の描画に代わってガラスに直接絵柄が掘り込まれるようになり(グラヴィール彫刻の始まり)[12]、レーマンはルドルフ2世からグラヴィールの独占権を認められた[13]。グラヴィール彫刻はボヘミアとシレジアに普及し、レーマンの弟子ゲオルグ・シュヴァンハルトによってニュルンベルクに伝えられ、ドイツ、オーストリアにも技術が広まった[14]。それ以降、従来の加工法を結合させ、装飾的なバロック様式が施されたガラス細工がヨーロッパの市場で知られるようになった[3]。プラハの宮廷で流行したボヘミアガラスはハプスブルク家の愛用品となり、ヨーロッパ各国の宮廷で珍重された[5]。レーマンら初期のガラス職人の作品は、ガラスを面ごと削ぎ取ったとも思える大胆なカットと、緻密な掘り込みが共存しており、彼らが培った伝統は後世の最高級品の中にも根付いている[15]。
1660年代から1670年代にかけての期間には、ボヘミアでクリスタッロ(ヴェネツィアで開発された無色の薄いソーダガラス)よりもグラヴィール彫刻に適した、輝度の高い硬質のカリガラスが開発された[16]。ガラスの原料の一つとなるソーダ灰について、ボヘミアはジェノヴァからの輸入に依存しており、しばしば供給に不都合をきたした[7]。ソーダ灰の代用品として、シレジアの山地で伐採された木材から作った石灰(ライム)が使われるようになる[17]。1680年代にはミヒャエル・ミューラーによって、木灰を利用した石灰カリガラスが発明される[8][13]。しかし、ミューラーのガラスは石灰の量の調節が難しいために均等な品質の維持に困難をきたし、ガラスの品質が安定するようになるのは18世紀に入ってからである[13]。また、カットとグラヴィールの発展と共に、窯、材料の調合の割合、除冷法にも改良が加えられていった[5]。18世紀末には乳白ガラスが開発され、ドイツ製の磁器を模倣した作品が多く作られた[8]。