ボブ・ホーナー
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ボブ・ホーナー
Bob Horner
アトランタ・ブレーブスでの現役時代
(1980年)
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地カンザス州ギアリー郡ジャンクションシティ
生年月日 (1957-08-06) 1957年8月6日(66歳)
身長
体重6' 1" =約185.4 cm
215 lb =約97.5 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション三塁手一塁手
プロ入り1978年 MLBドラフト1巡目
初出場MLB / 1978年6月16日
NPB / 1987年5月5日
最終出場MLB / 1988年6月18日
NPB / 1987年10月21日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)


アポロ高等学校

アリゾナ州立大学

アトランタ・ブレーブス (1978 - 1986)

ヤクルトスワローズ (1987)

セントルイス・カージナルス (1988)

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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ジェームズ・ロバート・ホーナー(James Robert "Bob" Horner, 1957年8月6日 - )は、アメリカ合衆国カンザス州ギアリー郡ジャンクションシティ出身(アリゾナ州マリコパ郡グレンデール育ち)の元プロ野球選手内野手)。

愛称は「赤鬼」、「黒船」など。
経歴
プロ入り前

アリゾナ州立大学4年次の1978年には、原辰徳のいる東海大学との親善試合に来日し、東海大学との5試合を含む全7試合において本塁打を放つ。同年に創設されたゴールデンスパイク賞の最初の受賞者となり、当時のNCAAの通算本塁打58本とシーズン本塁打25本の新記録を樹立した[1]
プロ入りとブレーブス時代

同年のMLBドラフト全体1位アトランタ・ブレーブスに指名され、1年目からマイナーでの出場を拒み、いきなりメジャーデビューを果たす[2]6月16日パイレーツ戦で初出場し、第3打席にバート・ブライレブンでから2ラン本塁打を放つ。最終的には89試合出場で打率.266、23本塁打、66打点を記録し、オジー・スミスらを抑えて新人王を獲得する。

1979年は契約年俸をめぐって球団と対立。キャンプに参加せず、開幕直前の3月26日にチームに合流した。6月4日に調停で年俸13万ドルと決まった。

2年目の1979年、3年目の1980年と2年連続で30本塁打以上を放つが、1981年は肩や足の故障に悩まされ、79試合出場で15本塁打に終わった。1982年は大きな故障もなく、2シーズンぶりの30本塁打以上を記録し、キャリア唯一のオールスター出場を果たすなど、ブレーブスの4番打者として成績を重ねた。

1983年1月には4年間550万ドルの契約を結んだが、このときの契約は体重109kgの彼がシーズン中の金曜日に13回体重を計量し、97.5kg以下の場合に1回あたり約7,700ドル、合計10万ドルのボーナスの出来高契約を含むものであった[3]。同年と1984年は右手首の故障に悩まされるが、1985年にはいくぶん回復して27本塁打を記録。

1986年7月6日エクスポズ戦で、メジャー史上11人目の1試合4本塁打を達成したがチームは敗れた。1試合4本塁打を記録した選手がいながらチームが敗れたのはメジャー史上2回目で、20世紀では唯一であった。また、「デビューから210本連続満塁本塁打なし」という当時のメジャー記録を打ち立てたが、パイレーツ戦で211本目にして初の満塁本塁打を放ち、この試合での4-2の勝利に貢献[4]。同年オフにFAとなったが、年俸高騰により各球団のオーナーが示し合わせFA選手を締め出したため、どこの球団とも契約できなかった[5][6]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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