ボブ・フォッシー
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ボブ・フォッシー
Bob Fosse
1963年『Pal Joey』
本名Robert Louis Fosse
ロバート・ルイ・フォッシー
生年月日 (1927-06-23) 1927年6月23日
没年月日 (1987-09-23) 1987年9月23日(60歳没)
出生地 アメリカ合衆国イリノイ州シカゴ
死没地 アメリカ合衆国ワシントンD.C.
職業映画監督振付師俳優脚本家ダンサー
活動期間1947年-1987年
配偶者メアリー・アン・ナイルズ
(m. 1947; div. 1951)
ジョーン・マクラッケン(英語版)
(m. 1952; div. 1959)
グウェン・ヴァードン
(m. 1960; sep. 1971)
アン・ラインキング(英語版) (1972?1978) ※事実婚
著名な家族ニコル・フォッシー(英語版)(娘)
主な作品
キャバレー
オール・ザット・ジャズ』(1979年)

 受賞
アカデミー賞
監督賞
1972年キャバレー
カンヌ国際映画祭
パルム・ドール
1980年オール・ザット・ジャズ
AFI賞
ミュージカル映画ベスト(第5位)
2006年『キャバレー』
英国アカデミー賞
監督賞
1972年『キャバレー』
エミー賞
バラエティ番組賞
1972年『ライザ・ウィズ・ア・Z』
バラエティ番組監督賞
1972年『ライザ・ウィズ・ア・Z』
バラエティ番組振付賞
1972年『ライザ・ウィズ・ア・Z』
トニー賞
ミュージカル演出賞
1972年『PIPPIN
ブルーリボン賞
外国語作品賞
1975年『レニー・ブルース
その他の賞
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞
監督賞
1972年『キャバレー』

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ボブ・フォッシー(Bob Fosse [?f?si], 1927年6月23日 - 1987年9月23日)は、アメリカ合衆国の俳優、振付師、ダンサー、映画監督、舞台演出家[1]。『パジャマゲーム』(1954年)、『くたばれ!ヤンキース』(1955年)、『ハウ・トゥー・サクシード』(1961年)、『スイート・チャリティー』(1966年)、『PIPPIN』(1972年)、『シカゴ』(1975年)などのミュージカルの舞台や映画において演出や振付、『スイート・チャリティー』(1969年)、『キャバレー』(1972年)、『レニー・ブルース』(1975年)、『オール・ザット・ジャズ』(1979年)、『スター80』(1983年)などの映画において監督を務めた。

膝の折り曲げや「ジャズ・ハンド」などの特徴的な振付で知られる。1973年、1年のうちにアカデミー賞エミー賞トニー賞を受賞した唯一の人物である。アカデミー賞に4回ノミネートされ、『キャバレー』でアカデミー監督賞を受賞し、『オール・ザット・ジャズ』でパルム・ドールを受賞した。トニー賞振付賞を最多の8回受賞している他、『PIPPIN』で演出賞も受賞している。
略歴

ノルウェー人の父とアイルランド人の母のもとにシカゴで生まれた[2]。1950年代のメトロ・ゴールドウィン・メイヤーミュージカルダンサー振付師として活躍した。

13歳で自身のダンス・グループ"The Riff Brothers"を率い、15歳ですでに振り付けをはじめていたという。

その後、ブロードウェイ・ミュージカルの演出を手掛け、『くたばれ!ヤンキース』や『スイート・チャリティ』、『シカゴ』で振り付けを担当している。

ダンサーとして映画に出演もしていたが、1968年に舞台の映画化『スイート・チャリティー』で監督デビューした。

1973年には『キャバレー』でアカデミー監督賞を、『PIPPIN』でトニー賞を、ライザ・ミネリ主演の"Liza with a Z"でエミー賞を受賞。1年のうちにこれだけの賞を獲得した人物は彼だけである。また、1979年の『オール・ザット・ジャズ』ではカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞している。

1999年、ブロードウェイで上演された、彼のダンスナンバーを集めたミュージカル『フォッシー』がトニー賞を受賞した。

果たされなかったが、彼の作品『シカゴ』をマドンナ主演で映画化する構想もあったという[要出典]。
生い立ち

1927年6月23日、イリノイ州シカゴにてザ・ハーシー・カンパニーの出張販売員のノルウェー系アメリカ人の父シリル・キングスリー・フォッシーと[3]、アイルランド系アメリカ人の母サラ・アリス・フォッシー(旧姓スタントン、愛称セイディ)のもとに生まれた。6人きょうだいの5番目であった[1][4][5]

ダンスに夢中になり、レッスンを受けていた。13歳の時にはシカゴにて「リフ・ブラザーズ」としてチャールズ・グラスと共にプロとして活動していた[6]。シカゴのヴォードヴィルや映画館の他、米国慰問協会による舞台やイーグルス・クラブでもパフォーマンスを行なっていた[7]。シルバー・クラウドやケイヴ・オブ・ウィンズなどのバーレスク・クラブにも出演していた。フォッシーによると、従業員の多くはフォッシーが未成年であるのに大人の社交場で働くことや、バーレスクの女性たちからセクハラされることに無関心であった。この頃の経験の多くがのちの作品に着想を与えることとなった。1943年、15歳の時、映画『Hold Evry'thing! A Streamlined Extravaganza in Two Parts』でバーレスクから着想を得た、肩紐のないドレスを着たショーガールが大きな扇子で踊るファン・ダンスを特徴とする振付を行ない、初めて振付師としてクレジットされた[8]

1945年に高校を卒業した後、第二次世界大戦終戦間近にアメリカ海軍に入隊し、五大湖海軍基地で戦闘に備えた。エンターテイメント部門に志願したがうまくいかず、マネージャーのフレデリック・ウィーヴァーに推薦してくれるよう嘆願した[8]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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