ボブ・シーガー
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ボブ・シーガー
米国ノースダコタ州ファーゴ公演(2013年)
基本情報
出生名Robert Clark Seger
生誕 (1945-05-06) 1945年5月6日(78歳)
出身地 アメリカ合衆国
ミシガン州デトロイト
ジャンルロック
職業ミュージシャンシンガーソングライター
担当楽器ボーカルギターピアノ
活動期間1961年 - 現在
共同作業者ザ・シルヴァー・ブレット・バンド
公式サイト ⇒bobseger.com

ボブ・シーガー(Bob Seger、1945年5月6日 - )は、アメリカ合衆国出身のロックミュージシャン、シンガーソングライター。本名は、ロバート・クラーク・シーガー(Robert Clark Seger)。全世界の総レコード・カセット・CD等の売り上げは7,500万枚以上とされている[1]

2004年、ロックの殿堂入りを果たした。
経歴
生い立ち

ミシガン州デトロイト市内の病院において、父スチュアートと母シャーロットの次男として生まれる。5歳の時にデトロイト近郊のアナーバーに引っ越す。医療技師としてフォード・モーター・カンパニーに勤務する傍ら、音楽活動でさまざまな楽器演奏をたしなむ父の影響で、シーガーも幼少期から音楽に親しむようになる。家庭内では両親間の喧嘩が絶えず、シーガーが10歳の時、父は家族を捨ててカリフォルニア州に移り住む。残された家族は経済的に困窮し、生計を支えるために母はハウスキーパーとして、4歳年上の兄ジョージも働きに出ることになった。1963年、シーガーは地元のアナーバー高校(現在のパイオニア高校。イギー・ポップもこの学校に通っていた)を卒業する[2]

シーガーの初期の音楽的影響は「リトル・リチャードが最初に夢中になったアーティストだった。そしてもちろんエルヴィス・プレスリー」と語る。最初に買ったレコードは、デル・バイキングスの1957年のヒット曲「カム・ゴー・ウィズ・ミー[3]
地元のスターから初の全国ヒットへ(1961?76年)
ザ・デシベルズとザ・タウン・クライアーズ

シーガーは1961年にアナーバー高校に通っていた3人でデシベルズ(The Decibels)を結成。ギター、ピアノ、キーボード、ボーカルを担当。シーガー初のオリジナル曲「The Lonely One」は、デル・シャノンのキーボード奏者マックス・クロクの地下室で録音された[4]

デシベルズ解散後、シーガーはタウン・クライヤーズ(The Town Criers)に加入する。4人組のこのバンドでシーガーはリードボーカルを担当し「ルイ・ルイ」などのカバー曲を歌っていた。この頃、シーガーはジェームス・ブラウンをよく聴いていて『Live at the Apollo』がお気に入りのアルバムだった。また、1964年に米国に上陸したビートルズの影響も大きく受けている。1960年代のラジオでかかるヒット曲に夢中になり、「ラジオにオンエアされなければ意味がない」と考えていた[5]
ダグ・ブラウン&ジ・オーメンズ

シーガーはダグ・ブラウンという男に出会い、ダグ・ブラウン&ジ・オーメンズ(Doug Brown & The Omens)に加入する。このバンドではブラウンがメインボーカル、シーガーはR&Bのカバー数曲でリードボーカルを担当していた[2]。1965年のシングル「TGIF (Thank Goodness It’s Friday)」がシーガーにとって初めて公式に発表されたレコードだった。翌年、バリー・サドラーの大ヒット曲「Ballad of the Green Berets(悲しき戦場)」のパロディで「Ballad of the Yellow Beret」という徴兵忌避者を揶揄する替え歌をビーチ・バムズ(The Beach Bums)名義でシングルを発表したところ、サドラーと彼のレコード会社から訴訟を起こされ、レコードは回収を余儀なくされる[6]

オーメンズの一員として活動しているとき、シーガーは後のマネージャーとなるエドワード・パンチ・アンドリュースに出会う。アンドリュースは当時デイヴ・レオーネと共同でハイドアウトという名でクラブや小規模なレコードレーベルを経営し、地元のバンドをマネージメントしていた。その中には、グレン・フライが在籍していたマッシュルームズ(The Mashrooms)もあった。シーガーはそれらのバンドのために曲を提供し、プロデュースを行っていた。あるとき、アンドリュースとレオーネの依頼で、アンダードッグス(The Underdogs)というバンドのためにシーガーはブラウンと「East Side Story」という曲を書いたが、レコード会社はアンダードッグス向きの曲ではないと不満を示した[6]
ザ・ラスト・ハード

シーガーは「East Side Story」を自分のバンドで録音しようと決め、オーメンズを脱退する。この曲は、1966年1月にボブ・シーガー&ザ・ラスト・ハードという名でハイドアウトレコードからシングルが発表され、デトロイトを中心に5万枚を売り上げるヒットになった。その後、ラスト・ハードはカメオ=パークウェイレコードと契約し、4枚のシングルを発表する。そのうち、1967年発表の「Heavy Music」は「East Side Story」を超える売り上げを記録し、全米でブレイクする可能性を秘めていたものの、その直前にカメオ=パークウェイレコードが倒産してしまう。「Heavy Music」は全米で最高103位、カナダで82位を記録し、後年のシーガーのライヴレパートリーに加えられることになる。
ザ・ボブ・シーガー・システム


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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