ボブ・グッチョーネ
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ボブ・グッチョーネ
Bob Guccione
生誕Robert Charles Joseph Edward Sabatini Guccione
(1930-12-17)
1930年12月17日
アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市ブルックリン区
死没2010年10月20日(2010-10-20)(79歳)
アメリカ合衆国テキサス州プレイノ
職業雑誌発行者
著名な実績『ペントハウス』誌創刊
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ボブ・グッチョーネ(Bob Guccione)ことロバート・チャールズ・ジョセフ・エドワード・サバティーニ・グッチョーネ(Robert Charles Joseph Edward Sabatini Guccione([?u??t?o?ni] goo-CHOH-nee)、1930年12月17日 - 2010年10月20日)は、アメリカ合衆国写真家、雑誌発行者。1965年に成人向け雑誌『ペントハウス』を創刊した人物。

『ペントハウス』はヒュー・ヘフナーの『プレイボーイ』に対抗することを目的とし、『プレイボーイ』よりも極端なエロティックなコンテンツ、ソフトフォーカス写真の特別なスタイル、そして政府の汚職やスキャンダルの詳細な報道を特徴としていた。1982年には『フォーブス』誌の長者番付「フォーブス400」に掲載されるようになり、マンハッタンでも有数の豪邸を所有していた。しかし、奔放な投資の失敗と1990年代の無料のオンライン・ポルノの成長により、グッチョーネの市場シェアは大きく縮小した。2003年、グッチョーネの出版社は破産を申請し、グッチョーネは会長を辞任した。
若年期

グッチョーネはニューヨークブルックリンのシチリア島出身のイタリア系移民の家に生まれ、ニュージャージー州バーゲンフィールド(英語版)でカトリック教徒として育った。父親のアンソニーは会計士で、母親のニーナは主婦だった。グッチョーネは聖職者になろうとしたが、拒絶された[1]。グッチョーネは、ニュージャージー州ブレアスタウン(英語版)の予科学校、ブレアアカデミーに通っていた[2]

10代の頃に最初の妻リリアン・ベッカーと結婚し[1]、娘を1人もうけたが結婚生活は上手く行かなかった。グッチョーネは妻子を残し、画家を目指してヨーロッパに渡った。ヨーロッパでイギリス人女性ミュリエル(Muriel)と出会い、ミュリエルと一緒にロンドンに移り住んで結婚した。2人の間には4人の子供がいた。

家族を養うためにグッチョーネはコインランドリーのチェーン店を経営していたが、後にアメリカの週刊紙『ロンドン・アメリカン』で漫画家としての仕事を得、ミュリエルもピンナップのポスターを売るビジネスを始めた。また、ボックス・カード(英語版)のためにグリーティングカード用の漫画も描いた[3][4][5]
キャリア

グッチョーネは1965年にイギリスで、1969年に北米で『ペントハウス』を創刊した。これは、ヒュー・ヘフナーの『プレイボーイ』に対抗しようとしたものだった。『プレイボーイ』は常にリベラルな傾向を持ち、公民権運動やその他の社会正義運動を支持していた。それに対しグッチョーネは、よりセンセーショナルな記事を提供し、他の男性誌よりもはるかに調査的に雑誌を執筆し、政府の隠蔽工作やスキャンダルについての記事も掲載した。クレイグ・S・カーペル、ジェームズ・デイル・デビッドソン(英語版)、アーネスト・ヴォルクマン、そしてシーモア・ハーシュなどのライターは、アメリカ政府の数々のスキャンダルや汚職を暴露した。一方、『プレイボーイ』はある種の保守主義を維持し、アメリカの主流の消費者主義を拒絶するのではなく、それを受け入れた。『プレイボーイ』は、ヒュー・ヘフナーが熱中していたスポーツの取材に大々的に力を入れていたが、グッチョーネはスポーツには全く興味がなかったため『ペントハウス』でスポーツの結果やスポーツ選手を取り上げることはなく、その代わりにアートの世界を取材することを好んでいた。

リソースがなかったため、グッチョーネは雑誌の創刊号に登場するモデルのほとんどを自分で撮影した[3]。グッチョーネは、写真撮影の専門的な訓練を受けていなかったため、絵画の知識を写真撮影に応用した。その結果生まれたソフトフォーカスの写真は、『ペントハウス』の特徴となった[6]。グッチョーネは、撮影が完了するまでに数日かかることもあった。

雑誌の成功により、グッチョーネは公然と贅沢な生活をするようになった。グッチョーネはマンハッタンアッパー・イースト・サイドに2千平方メートルの豪邸を構えた。しかし、ヘフナーがプレイボーイ・マンション(英語版)で乱痴気騒ぎを繰り広げていたのとは対照的に、1970年代の性の革命の絶頂期にあっても、グッチョーネの豪邸での生活は驚くほど落ち着いていた[3]。グッチョーネは、DJとして雇われていた地元のラジオパーソナリティをボディガードに追い出してもらい、裸でプールに飛び込んだこともあったと報じられている[7]

『ペントハウス』は当時一般的に販売されていた多くの男性誌よりも、より露骨な内容を提供していた。女性の陰毛を見せたのはこの雑誌が初めてで、その後、正面からの全裸、そして外陰部と肛門を露出したものがそれに続いた。1960年代の終わりまで、公に流通する出版物で女性の臀部や乳房以上のものを表示することは認められておらず、猥褻罪に問われる危険性があった。低予算のアングラ雑誌のみが女性の性器や露骨なポーズを掲載していた。しかし、カウンターカルチャー運動により、性的態度がますます自由になり、一連の裁判所の判決により、ポルノに対する法的規制のほとんどが廃止された[3]。また『ペントハウス』は、長年にわたり、マドンナヴァネッサ・ウィリアムスのような有名人の写真について、未承諾のものも掲載してきた。どちらの場合も、その写真はキャリアの早い時期に撮影され、マドンナやウィリアムズが有名になってから『ペントハウス』に販売されたものである。ウィリアムズの場合は、これが原因でミス・アメリカ1984を一時強制的に辞退させられることになった。1990年代後半になると同誌は排尿、緊縛などのフェティッシュな内容をより多く掲載するようになった[3]

1970年代初頭、グッチョーネはユーゴスラビアアドリア海沿岸のマリンスカ(英語版)の北のクルク島にある高級ホテルリゾート、ハルドヴォ・パレス・ホテル内のカジノの開設に約4500万ドルを投資し、さらに広告に50万ドルを投資した。ユーゴスラビアは名目上は共産主義国であるにもかかわらず、外国からの投資を奨励していた。ホテルはユーゴスラビアの建築家ボリス・マガシュ(英語版)によって設計され、1972年に正式にオープンした。カジノのスタッフには約50人のペントハウス・ペットを含み、ホテルにはイラクのサダム・フセイン元大統領も宿泊した。だが、このカジノはオープン翌年には倒産してしまった[8][9]

1976年、グッチョーネは個人的な財産約1,750万ドルを使ってポルノ映画『カリギュラ』の制作を開始した。マルコム・マクダウェルヘレン・ミレンジョン・ギールグッドピーター・オトゥールといった豪華なキャストを起用し、イタリアのポルノ映画界の巨匠・ティント・ブラスが監督を務めた。1979年に公開され、大ヒットを記録した。

また、グッチョーネは雑誌『オムニ』『ビバ(英語版)』『ロングライフ』も創刊した[3]。後にアメリカ版『ヴォーグ』の編集長となるアナ・ウィンターの編集者としての最初の仕事は、『ビバ』のファッションエディターだった。

さらに、文章を中心とした『ペントハウス・フォーラム(英語版)』を創刊した。2000年代初頭には、性的に露骨なストーリーが特徴のコミック・ブック『ペントハウス・コミックス(英語版)』を創刊したが、短命に終わった。

1982年、グッチョーネは『フォーブス』の長者番付「フォーブス400」に掲載され、その純資産額は4億ドルと報告された[10]


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