ボブ・ギブソン
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ヤクルトスワローズなどでプレーした同名の投手については「ボブ・ギブソン (1957年生の投手)」をご覧ください。

ボブ・ギブソン
Bob Gibson2010年
基本情報
国籍 アメリカ合衆国
出身地ネブラスカ州オマハ
生年月日 (1935-11-09) 1935年11月9日
没年月日2020年10月2日(84歳没)
身長
体重6' 2" =約188 cm
195 lb =約88.5 kg
選手情報
投球・打席右投右打
ポジション投手
プロ入り1957年
初出場1959年4月15日
最終出場1975年9月3日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴


クレイトン大学

セントルイス・カージナルス (1959 - 1975)

コーチ歴


ニューヨーク・メッツ (1981)

アトランタ・ブレーブス (1982 - 1984)

セントルイス・カージナルス (1995)

アメリカ野球殿堂 殿堂表彰者
選出年1981年
得票率84.04%
選出方法BBWAA[:en]選出
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■プロジェクト:野球選手  ■テンプレート

ロバート・ギブソン(Robert Gibson, 1935年11月9日 - 2020年10月2日)は、アメリカ合衆国ネブラスカ州オマハ出身の元プロ野球選手投手)、右投右打。

ニックネームは「Hoot」、「Gibby」。
経歴1962年

7人兄弟の末っ子として生まれる。幼い頃は体が弱く、くる病気管支喘息肺炎心雑音などを患っており、成人するまで持つかと言われていた[1]。10代になって急激に身長が伸び、クレイトン大学時代は野球バスケットボールで奨学金を得て活躍した。

1957年セントルイス・カージナルスと契約。1959年4月15日の対ロサンゼルス・ドジャース戦でメジャーデビュー。しかし結果を残せずマイナー降格。7月に再昇格し、30日の対シンシナティ・レッズ戦でメジャー初勝利を完封で飾った。同年は3勝5敗、1960年は3勝6敗に終わる。1961年はメジャーに定着し、13勝12敗、防御率3.24を記録。速球の威力は十分だったものの制球が悪く、リーグ5位の166奪三振の一方で、リーグワーストの119四球を与えた。1962年は前半戦で10勝を記録し、自身初のオールスターゲームに選出されるが登板機会はなし。シーズン通算で15勝13敗、防御率2.85、208奪三振、リーグ最多タイの5完封を記録した。1963年は5月まで防御率5.72と不調だったがその後調子を上げ、18勝9敗、防御率3.39の成績。1964年は後半戦で13勝を挙げ、19勝12敗、防御率3.01、245奪三振を記録。チームはフィラデルフィア・フィリーズとの最大11ゲーム差を逆転し、18年ぶりのリーグ優勝。ニューヨーク・ヤンキースとのワールドシリーズでは第2戦で先発したが8回4失点で敗戦投手。第5戦では完封目前の9回二死から同点本塁打を浴びるが、10回に女房役のティム・マッカーバーが勝ち越し3点本塁打を放ち、13奪三振で完投勝利を挙げる。3勝3敗のタイで迎えた第7戦ではミッキー・マントルクリート・ボイヤー(後に大洋)らに本塁打を浴びるなど、被安打9で5失点も9奪三振の力投で完投勝利を挙げてワールドチャンピオンとなり、シリーズMVPに選出された。1965年は開幕から8連勝を記録し、3年ぶりのオールスターゲームに選出され、以後5年連続で選出される。自身初の20勝を記録し、防御率3.07、リーグ3位の270奪三振、リーグワーストの34被本塁打を記録。初のゴールドグラブ賞を受賞し、以後8年連続で受賞する。1966年は21勝12敗、防御率2.44、サンディー・コーファックスらと並んでリーグ最多の5完封を記録した。

1967年7月15日の対ピッツバーグ・パイレーツ戦で、ロベルト・クレメンテの打球が足を直撃し、腓骨を骨折。シーズン中の復帰は絶望的かと思われたが、驚異的な回復で9月に復帰。怪我の影響がありながらも13勝を挙げ、チームは3年ぶりのリーグ優勝。ボストン・レッドソックスとのワールドシリーズでは、第1戦に先発して10奪三振1失点完投勝利。第4戦で5安打完封。第7戦では5回に本塁打を放ち、10奪三振で2失点完投勝利を挙げてワールドチャンピオンとなった。3勝、防御率1.00の大活躍で2度目のシリーズMVPを受賞した。なお、同年の対レッズ戦ではトニー・ペレスへの厳しい内角球を巡って両軍ベンチ総出で乱闘寸前となり、結局これを収めるために警官隊が出動し、試合は12分間にわたって中断された。

1968年は5月まで防御率1.52ながら打線の援護がなく3勝5敗だったが、6月2日から全て完投で15連勝。6月6日から5試合連続完封、連勝中に10完封を記録するなど絶好調で、最終的に22勝9敗、防御率1.12、268奪三振、28完投、13完封、WHIP0.85という驚異的な成績を記録し、最優秀防御率最多奪三振を獲得、チームのリーグ連覇の原動力となった。この防御率1.12という数字は、いわゆるライブボール時代以降では歴代最高の成績であり、2位がドワイト・グッデン(1985年)の1.53であるから、いかに圧倒的なものであるかがわかる。また、13完封も歴代3位タイでライブボール以降の最多記録。デトロイト・タイガースとのワールドシリーズでは、第1戦で31勝を挙げたデニー・マクレインと投げ合い、シリーズ新記録の17奪三振で完封勝利。第4戦では4回に本塁打を放ち、10奪三振1失点で完投勝利を挙げ、3勝1敗と王手をかける。その後3勝3敗のタイにされて迎えた最終第7戦では6回まで内野安打1本と完璧に抑えたが、7回二死から連打を浴び、中堅手カート・フラッドの転倒など不運もあって3点を失う。結局4失点で完投するが敗戦投手となり、3勝4敗で敗退。MVPサイ・ヤング賞を同時受賞した。

1969年は20勝13敗、防御率2.18、269奪三振、リーグ最多の28完投、キャリアハイの314.0イニングの成績。1970年は5月23日のフィリーズ戦で自己最多の16奪三振を記録し、その試合から10連勝。7月28日からは7連勝を記録し、23勝7敗、防御率3.12、キャリアハイの274奪三振で最多勝のタイトルを獲得し、2度目のサイ・ヤング賞を受賞。1971年8月14日の対パイレーツ戦ではノーヒットノーランを達成。16勝13敗、防御率3.04、リーグ最多タイの5完封を記録した。1972年は開幕から5連敗を喫するが、その後3完封を含む11連勝を記録。19勝11敗、防御率2.46、208奪三振の成績だった。1973年は8月から故障でおよそ2か月離脱して25試合の登板にとどまるが12勝、防御率2.77を記録。1974年はリーグワーストタイの24被本塁打、9年ぶりに100を超える104四球を与えるなど衰えが見え始め、1975年に3勝10敗、防御率5.04に終わり、同年を最後に現役を引退。ギブソンの背番号「45」。
セントルイス・カージナルスの永久欠番1975年指定。


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