ボフダン・フメリニツキー
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1941年のソ連映画については「ボフダン・フメリニツキー (映画)」をご覧ください。

ボフダン・フメリニツキー

紋章

配偶者ハンナ・ソムキーウナ
モトローナ・チャプリンシカ
ハンナ・ゾロタレンコ
息子ティーミシュ・フメリニツキー(ウクライナ語版、ロシア語版)
ユーリー・フメリニツキー
娘カテリーナ・フメリニツカ
ステパニア・フメリニツカ
称号ヘーチマン(1648年1657年
身分貴族
家名フメリニツキー家
民族ウクライナ人
父親ムィハーイロ・フメリニツキー
母親アハーフィヤ・フメリニツカ
生没1595年 - 1657年8月6日
出生ポーランド王国スボーティウ村
死亡コサック国家スボーティウ村
宗教正教徒[1]
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ボフダン・フメリニツキー(ウクライナ語: Богда?н Хмельни?цький ボフダン・フメリヌィーツィクィイ[2]1595年 - 1657年8月6日)は、ポーランド・リトアニア共和国貴族で、ウクライナ・コサックの指導者である。ザポロージャのコサックの軍団書記(ウクライナ語版)(1622年 - 1647年)や、ウクライナ・コサックの最高指導者ヘーチマン1648年 - 1657年)を務めた。ヘーチマンとして、ポーランド・リトアニア共和国に対し1648年から1657年にかけて、フメリニツキーの乱を起こし、1654年のペラヤースラウ会議でポーランドと戦うために、ロシア・ツァーリ国ツァーリから保護を受けることで、ヘーチマン国家を建設した。キエフ・ルーシ崩壊後のウクライナ史最大の英雄との意見もあるが[3]、ウクライナ国内外に否定的な評価もある。当時ロシアに匹敵するほどの大国であったポーランドが大国から小国に転落する大洪水時代の始まりとなる人物であり、彼の反乱がポーランド分割に繋がるため批判の的である[4]1649年-1654年におけるウクライナ・コサック国家(水色)

周囲は大国に囲まれていたため、最初はクリミア・ハン国と同盟を結んだが裏切られ、次にオスマン帝国に対する自国の保護国要請をし、保護国とするとオスマン帝国の表明を受けて保護国になろうとしたが、国内の正教会宣教師反対と部下の無断なオスマン帝国保護国への攻撃により頓挫。最終的に大国ポーランド・リトアニア共和国から独立に成功したものの、正教会国であるロシアの保護国となった。彼の乱と軍事的支援要請以降に、ロシアのウクライナ初進出と東欧進出の野望に繋がり、ウクライナを自国領域と見なすようになったきっかけとなった。そのため、ロシアからは完全肯定に近い評価であるが、19世紀ウクライナの詩人タラス・シェフチェンコは、ウクライナをロシアに売った売国奴として強く非難している[5][6]
生涯
前半生

1595年にドニプロー川中流域のチヒルィーン近郊にあるスボーチウに生まれた[3]。父ムィハーイロ(ウクライナ語版)はコサックの小領主であった。フメリニツキーは実家の近所の教会学校で初等教育を受けたあと、ヤロスワフイエズス会神学校、あるいはポーランドの大将軍スタニスワフ・ジュウキェフスキが自らの地元リヴィウに設立した学校で中・高等教育を受けたとされている。通常のローマ・カトリック教徒の同級生が多いなか、ボフダン少年は正教会に所属しつづけた[1]。学校では世界ポーランドの歴史ウクライナ語ポーランド語ロシア語トルコ語オスマン語)、ラテン語を習得したとされる[7]

1620年、父に従いツェツォーラの戦いに従軍し、ポーランド軍の一員としてオスマン帝国軍と戦った[8][9]。この戦いで父が戦死し、フメリニツキー自身は捕虜となり、イスタンブールに2年間抑留された[8]。この間もトルコ語の習得に余念がなく、オスマン帝国の情勢に精通するようになった。1622年に母親が身代金を工面したため帰国を許された。その後、登録コサックに入り、チヒルィーンの百人隊の隊長兼書記官となった。領地経営の傍らコサックの対外交渉団に加わり、交渉相手のポーランド王からも高い評価を得たとされている[10]1637年から1638年に起きたウクライナ・コサックのポーランドに対する反乱の際には、オタマーン(コサック指導者)の軍団書記として従軍した[9]1645年ごろにはコサック傭兵の参加問題でポーランド政府からフランス王国に派遣された他、ポーランド王ヴワディスワフ4世の対クリミア作戦計画にも参加した[9]
蜂起詳細は「フメリニツキーの乱」を参照ボフダン・フメリニツキーの旗。ポーランド・リトアニア共和国の御慈悲(МЛС)の王(ЕК)の(臣たる)ボフダン(Б)フメリニツキー(Х)、ザポロージャ(З)の軍(В)のヘーチマン(Г)。

1647年、ポーランドの貴族でチヒルィーンの副長官ダニエル・チャプリンスキが、50歳を超えていたフメリニツキーの領地を奪おうとした[10]。フメリニツキーはチフィルィーンの法廷やポーランド議会、ポーランド王ヴワディスワフ4世に訴えるが、フメリニツキーの主張が支持されることはなかった。秋になると、フメリニツキーはウクライナ中を回って各地方のコサックの有力者に自分の立場を訴えたが、このことでフメリニツキーはポーランド・リトアニア共和国に対して反乱するためにコサックを糾合すべく根回しを行っているのではないかとの嫌疑がかけられることになり、チフィルィーンの代官によって逮捕されてしまう。フメリニツキーには死刑の宣告が下ったが、12月にフメリニツキーは代官を説得して出獄、一方でポーランド・リトアニア共和国に対する蜂起を決意する。フメリニツキーはザポロージャのシーチ(英語版)に逃れ、ポーランド貴族による収奪に不満を蓄積していたコサック達を説得することに成功する[10]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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