ボビー・ミッチェル_(アメリカンフットボール)
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ボビー・ミッチェルBobby Mitchell
基本情報
ポジションハーフバック
フランカー
生年月日 (1935-06-06)
1935年6月6日
没年月日 (2020-04-05) 2020年4月5日(84歳没)
出身地 アメリカ合衆国
アーカンソー州ホットスプリングス
身長:6' 0" =約182.9cm
体重:192 lb =約87.1kg
経歴
大学イリノイ大学
NFLドラフト1958年 / 7巡目全体84位
初出場年1958年
初出場チームクリーブランド・ブラウンズ
所属歴

1958-1961クリーブランド・ブラウンズ
1962-1968ワシントン・レッドスキンズ

受賞歴・記録
オールプロ選出(計5回)

1st(3回)

1962・1963・1964
2nd(2回)
1959・1960
プロボウル選出(4回)
1960,1962-1964
その他受賞・記録
ワシントン・レッドスキンズの偉大な70人
レッドスキンズ・リング・オブ・フェイム
ワシントン・レッドスキンズ永久欠番 #49
NFL 通算成績

レシーブ回数521回
レシーブ獲得ヤード7,954ヤード
TDレシーブ65回
ラン獲得ヤード2,735ヤード
TDラン18回
Player stats at ⇒NFL.com


Player stats at PFR
NFL殿堂入り

ボビー・ミッチェル(Robert Coenelius Mitchell 1935年6月6日 - 2020年4月5日[1])はアーカンソー州ホットスプリングス出身の元アメリカンフットボール選手。NFLクリーブランド・ブラウンズワシントン・レッドスキンズでプレーした。ポジションはハーフバック、フランカー。1983年にプロフットボール殿堂入りを果たしている。
経歴
プロ入りまで

高校時代はアメリカンフットボール、バスケットボール陸上競技と共に野球を行った。MLBセントルイス・カージナルスからオファーも受けた[2]が彼はイリノイ大学奨学金を受けて大学進学し、アメリカンフットボールを続けることを選んだ。2年次に控えRBだったが7試合終了した時点でエースRBが負傷欠場することとなり彼にチャンスが巡ってきた。ハーフバックのポジションを獲得した彼は大学に入って最初のボールキャリーで64ヤードのタッチダウンランをあげた[2]。この試合で彼は10回のボールキャリーで173ヤードを獲得、チームは全米ランキング3位のミシガン大学を25-6で破る番狂わせを演じた[3]。彼は残り2試合でも100ヤード以上を走った。またディフェンスバックとしても起用された[3]。この年彼は1プレイあたり平均8.6ヤードを稼いだ[2]。3年の時はひざの負傷のためほとんど試合に出場することはなかった[3]。4年次に彼はカレッジフットボール・オールスターゲームに出場しジム・デビッドを抜き去り84ヤードのタッチダウンレシーブ、ジム・ニノウスキからの18ヤードのタッチダウンレシーブをあげた[2]。オールスターズはデトロイト・ライオンズを35-19で破りニノウスキと共にMVPに選ばれた[2]。2年次の1955年にはビッグ・テン・カンファレンスのファーストチームに、4年次の1957年にもセカンドチームに選ばれた[3]。また陸上競技でも1958年2月に70ヤードハードルで7秒7の世界記録(6日後に破られた)を作った[2][3]。彼は卒業後にアメリカンフットボールを取るか陸上競技を取るか迷っていた。2年後の1960年にローマオリンピックを控えていたがブラウンズのヘッドコーチ、ポール・ブラウンから7000ドルを呈示されオリンピックを目指す代わりにNFL入りを決意した[4]
クリーブランド・ブラウンズ

大学卒業後、1958年のNFLドラフトで7巡目で指名されてクリーブランド・ブラウンズに入団した。彼はハーフバックとして起用された[5]。1958年から1961年までの4年間ジム・ブラウンとのコンビは大きな力を発揮した[5]。新人の年に彼は98ヤードのキックオフリターンタッチダウンをあげた。2年目のワシントン・レッドスキンズ戦では90ヤードのラッシングタッチダウンを含む232ヤードを走った。またニューヨーク・ジャイアンツ戦では78ヤードのパントリターンタッチダウンをあげた[2]。ブラウンズでの4年間で彼はランで2297ヤード、レシーブで1463ヤード、パントリターンで607ヤード、キックオフリターンで1550ヤードを稼ぎ38タッチダウンをあげた[2]。彼があげたキックオフリターンタッチダウン3回は未だにブラウンズ記録となっている。
ワシントン・レッドスキンズ

1962年のNFLドラフトでワシントン・ポストアメリカ合衆国連邦政府の圧力を受けてワシントン・レッドスキンズは1961年12月4日に行われたドラフト全体1位でハイズマン賞を獲得したアーニー・デービスを指名していた[6]。しかし同月半ばにレッドスキンズのオーナー、ジョージ・プレストン・マーシャルはミッチェルとその年ブラウンズが1位指名したリロイ・ジャクソンを獲得する代わりにブラウンズにデービスをトレードすることを発表した[6][7]


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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