ボビー・ドリスコール
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Bobby Driscoll
ボビー・ドリスコール
1950年
別名義ロバート・ドリスコル
生年月日 (1937-03-03) 1937年3月3日
没年月日 (1968-03-30) 1968年3月30日(31歳没)
出生地 アメリカ合衆国アイオワ州シーダーラピッズ
死没地 アメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク・シティ
国籍 アメリカ合衆国
職業俳優声優
ジャンル映画テレビドラマ舞台
活動期間1943年 ? 1965年
配偶者マリリン・ジーン・ラッシュ (1956 - 1960)
主な作品
南部の唄』(1946年)
わが心にかくも愛しき』(1948年)
ピーター・パン』(1953年)

 受賞
アカデミー賞
ジュブナイル賞(特別賞)
1949年
その他の賞

備考
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム
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ボビー・ドリスコール(Bobby Driscoll、1937年3月3日 - 1968年3月30日)はアメリカ合衆国俳優子役。ボビー・ドリスコルとも表記される。アイオワ州シーダーラピッズ出身。

1940年代から1950年代前半にかけてディズニーを中心に活躍し、ウォルト・ディズニーお気に入りの子役として知られた。
生涯
デビューまで・キャリア初期

断熱材のセールスマンだった父と元教師の母の間に一人っ子として生まれる。

5歳の時、両親の勧めによって、MGMで行われた『迷へる天使(英語版)』(1943年)のオーディションに参加。スタジオの敷地内を見学していた際に監督の目に留まり、40人の応募者の中から抜擢されることとなった[1][2]。複数の映画で小さな役を演じたのち、ルアナ・パットン(英語版)と共にウォルト・ディズニーと契約を結んだ[3]
ディズニーでの活躍テレビ番組『ウォルト・ディズニー・クリスマス・ショー』でピーター・パンを演じるドリスコール (1951年)

パットンと共にウォルト・ディズニー・スタジオ初の専属子役となったドリスコールは「ディズニーのスウィートハート・チーム」と呼ばれ[4]、『南部の唄』(1946年)で主演となるジョニーを演じ、人気子役となる[5]。その後は『わが心にかくも愛しき』などいくつかの作品に出演し、RKOピクチャーズに貸し出されたドリスコールは、映画『』に出演した[6]。『窓』は1949年に公開されると予想外の成功を収め、ニューヨーク・タイムズ紙は「この映画の成功はドリスコールのおかげ」と高く評価した[7]1950年、ドリスコールは『わが心にかくも愛しき』と『窓』の演技が評価され、第22回アカデミー賞にて優れた少年俳優としてジュブナイル賞(特別賞)を受賞した[8][9]

宝島』(1950年)などに出演後、ドリスコールはディズニーとの二度目の長期契約を結び、以降もディズニー専属の子役として活動。『グーフィーのお父さん』ではグーフィーの息子(マックス)の声優を務めた。

1953年、ディズニーの長編アニメーション映画『ピーター・パン』にて主人公のピーター・パンとしてキャスティングされ、声優として出演したほか、アニメーション制作ではピーター・パンの顔のモデルも務めた。これが、ドリスコールのキャリアで最後に成功を収めた作品となった。

そのキャリアや、マーク・エリオットが著したウォルト・ディズニーの伝記の中で「ウォルトはしばしば、ドリスコールのことを“自身の青春の生き写し”だと愛情を込めて語っていた。」との記載があるなど、「ディズニーお気に入りの“実写”子役スター」であったドリスコールだが、1952年以降は仕事が大幅に減少しており、『ピーター・パン』公開後の会議でウォルトは「現在のドリスコールは、好感の持てる主人公よりも若いいじめっ子の役が最適だと考えている」と述べた[10]。この頃、ドリスコールの給料は週1,750ドルにまで引き上げられていた[11]

『ピーター・パン』が劇場公開された数週間後である1953年3月、ドリスコールは、1956年までディズニーに在籍できるはずだった専属契約を中途解約され、ディズニー・スタジオとの関係を打ち切ることとなった。公式では、契約解除の理由について「思春期の到来にともなう重度のにきびによって、多くの番組で厚化粧をする手間が生じる事態となったため」と発表された[12]
その後・荒れた私生活

ディズニー・スタジオを去った後、両親はドリスコールをハリウッド・プロフェッショナル・スクール(英語版)から退学させ、公立高校に転入させた[13][14][15]。そこでドリスコールはいじめを受けて成績が大幅に落ち、薬物を使用するようになる。ドリスコールは後に、この時期を以下のように語った。.mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}他の子供たちは僕を受け入れてくれなかった。彼らは僕を別の存在と扱ったんだ。僕は必死で連中の仲間になろうとした。だが、彼らが僕を拒絶したとき、僕は反撃し、好戦的で生意気になった――そして、いつも恐れていた[16][17]

翌年、ドリスコールは両親に頼みハリウッド・プロフェッショナル・スクールへ復学し、1955年5月に同校を卒業したが、荒れた私生活を戻すことはできなかった[18]

この間、俳優としてのドリスコールは「ディズニーの子役」のイメージから脱却できず、ハリウッドの他のスタジオも彼にますます無関心になったため、約3年間を映画でなくテレビやラジオを中心に活動した[19]

ドリスコールの薬物使用は増加した。数年後のインタビューで彼はこの件についてこのような発言をした。僕が初めて“物質”を試したのは17歳の時だった。あっという間に使えるものは何でも使うようになった...。主にヘロインだったな。だって、それを買うお金があったからね[20]

1956年、ドリスコールはマリファナ所持の容疑で初めて逮捕された[21]


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