ボビー・ダーリン
Bobby Darin
1959年のボビー・ダーリン
基本情報
出生名Walden Robert Cassotto
生誕 (1936-05-14) 1936年5月14日
出身地 アメリカ合衆国、ニューヨーク市イースト・ハーレム
死没 (1973-12-20) 1973年12月20日(37歳没)
アメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルス
ジャンルジャズ、ブルース、ロック、ポップ、スウィング、フォーク、カントリー
職業歌手、俳優
担当楽器歌、ギター、ピアノ、ドラム、ハーモニカ、シロフォン
活動期間1956年?1973年
レーベルデッカ・レコード、アトコ・レコードロンドンレコード、キャピトル・レコードブランズウィック・レコード、アトランティック・レコード、モータウン
公式サイト ⇒http://www.bobbydarin.com/
ボビー・ダーリン(英語: Bobby Darin, [?d??r?n], 本名:ウォルデン・ロバート・カソット、1936年5月14日 - 1973年12月20日)は、アメリカ合衆国の歌手、作曲家、俳優。ジャズやポップ、ロックンロール、フォーク、スウィング、カントリーミュージック等様々なジャンルを手掛けた。
ダーリンのキャリアはコニー・フランシスの作曲家として始まった。1958年の「スプリッシュ・スプラッシュ」が彼の初めてのミリオンセラーとなった。その後の「ドリーム・ラヴァー」、「マック・ザ・ナイフ」、「ビヨンド・ザ・シー」といった曲により、ダーリンは世界的に有名になった。1962年には、後に妻となるサンドラ・ディーと初共演した『9月になれば』(Come September)でゴールデングローブ賞を受賞した。
1960年代、彼は政治に対してより活動的になり、ロバート・ケネディの大統領選挙戦にも関わった。ケネディが暗殺された1968年6月5日の夜、ダーリンは同じロサンゼルスのアンバサダーホテルにいた。同年、彼は母親ではなく祖母に育てられ、姉だと思っていた女性が実際には母親であったと知った。これらの出来事にダーリンは深く影響を受け、長い引きこもり生活を送ることにもなった。
彼はテレビでカムバックを果たしたが、子どもの頃に患ったリウマチ熱の影響で健康状態が悪化していった。長くは生きられないと分かっていたダーリンは、若い頃から音楽によって励まされてきた。ロサンゼルスで心臓の手術を受けた後、37歳で死去した。 ダーリンはウォルデン・ロバート・カソットとしてニューヨークのイースト・ハーレム地区で生まれた[1]。ダーリンは母方の祖母(彼は母親だと思っていた)に育てられた。ダーリンの母、バニーナ・ジュリエット・ニーナ・カソット(1917年11月30日 - 1983年)は1935年の夏、17歳の時に彼を妊娠した。おそらく、この時代では未婚のうちに妊娠することは恥ずべきことであったため、ニーナと彼女の母親は赤ちゃんをニーナの弟に成りすませる作戦を立てたのであった。ダーリンの母方の祖父、サベリオ・アントニオ・ビッグ・サム・カーリー・カソット(1882年1月26日生まれ)は自称ギャングの一員のイタリア系で、ダーリンが生まれる数年前に肺炎により獄中で亡くなっていた。母方の祖母、ビビアン・ファーン・ウォルデン(1882年生まれ)は自分自身をポリーと呼び、イギリス系[2][3][4]のヴォードヴィル歌手であった[5]。ダーリンは生まれてからずっと、ニーナが姉でポリーが母親だと思っていた。1968年、彼が32歳の時、ニーナはダーリンに真実を話したが、父親が誰であったか明らかにすることは拒み、その秘密は墓場まで持っていかれた。この事実は彼にとって衝撃的なものであったと伝えられている[6]。 13歳までに、ダーリンはピアノ、ドラム、ギターなどの楽器を演奏することができた。後にハーモニカやシロフォンの演奏も身に着けた[7]。 ダーリンは幼い頃にブロンクスへ移り(夏の別荘はスタテンアイランドにあった[8])、名門のブロンクス科学高校を卒業した。ハンター・カレッジに入るとすぐに演劇の世界に引き付けられていった。わずか2学期を過ごした後、俳優の道に進むために退学した[9]。 ダーリンの作曲家としてのキャリアは、ニューヨーク州ワシントンハイツの菓子屋で出会ったドン・カーシュナーとコンビを組んだことから始まった。「バブルガム・ポップ」を始めとして、ジングルや曲を書いた[10]。1956年、代理人がデッカ・レコードと交渉し、契約を結んだ。これらの曲がデッカ・レコードにもたらした成功はほとんどなかった。 ブリル・ビルディングの売れない作曲家一団のうちの一人であったダーリンはコニー・フランシスを紹介され、いくつかの曲を書いた。2人は恋心を抱いていたが、彼女の父親はダーリンを好まず、認めなかったため、2人は別れることとなった。一時、ダーリンは彼女と駆け落ちをしようとしていた。ダーリンと結婚しなかったのは自分の人生において最大の間違いであったとフランシスは語っていた[11]。 ダーリンはデッカを去り、アトランティック・レコードのサブ・レーベルであるアトコ・レコードと契約し、作曲、編曲活動を行った。ダーリンが録音した、ハリー・ウォーレン アトランティックのアーメット・アーティガンに導かれ、1958年に発表した「スプリッシュ・スプラッシュ」でついにダーリンの人気が出始めた。この曲はラジオDJのマレー・カウフマン
生い立ち
音楽
1959年、ダーリンは自作したバラード曲「ドリーム・ラバー」をリリースし、数百万枚を売り上げた。経済的にも成功を収めるようになった。次のシングル「マック・ザ・ナイフ」はクルト・ヴァイルの『三文オペラ』で使われた曲で、ジャズポップ調で演奏されている。当初、ダーリンはシングルを出すことに反対していたものの[17]9週連続で全米チャート1位を獲得し、200万枚を売り上げ、1960年のグラミー賞を受賞した。「マック・ザ・ナイフ」は後に殿堂賞も受賞した。また、ダーリンは同年の最優秀新人賞にも輝いた。
ダーリンは続いて「ビヨンド・ザ・シー」をリリースした。