ボビー・ウィットロック
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ボビー・ウィットロック

基本情報
出生名Robert Stanley Whitlock
ジャンルロック, ソウル, ゴスペル, ブルース
職業ミュージシャン, シンガー・ソングライター
担当楽器ヴォーカル, キーボード, ギター
活動期間1965 -
レーベルスタックス, エレクトラ, アトコ, ABC-ダンヒル, カプリコーン, スワンソング, グレープヴァイン, ドミノ
共同作業者デラニー&ボニー&フレンズ, デレク・アンド・ザ・ドミノス, エリック・クラプトン

ロバート・スタンリー・「ボビー」・ウィットロック (Robert Stanley "Bobby" Whitlock, 1948年3月18日 - ) は、アメリカ合衆国のミュージシャン、作曲家エリック・クラプトンと共に、ブルース・ロック・バンドのデレク・アンド・ザ・ドミノスのメンバーだったことで最もよく知られる。
概要

ウィットロックの音楽キャリアは、サム&デイヴブッカー・T&ザ・MG'sといったメンフィス・ソウルのグループで始まった。彼は1968年にデラニー&ボニー&フレンズに加わり、1970年にはクラプトンと共にロンドンでジョージ・ハリスンの『オール・シングス・マスト・パス』のセッションに参加した後、デレク・アンド・ザ・ドミノスを結成した。そして唯一のスタジオアルバム『いとしのレイラ』(1970年) で、「テル・ザ・トゥルース」「エニイデイ」「恋は悲しきもの」を含む多くの曲を単独あるいは共同で書き下ろした。

彼は1970年代に4枚のソロアルバムを録音した。その中にはクラプトン、ジョン・レノンドクター・ジョンローリング・ストーンズが参加した『ボビー・ウィットロック』と『ロウ・ヴェルヴェット』が含まれる。その後、活動を休止した。

1999年に復帰して『イッツ・アバウト・タイム』を発表。その後は妻ココ・カーメルとレコーディングや演奏を行い、2006年以降はテキサス州オースティンを拠点として他のミュージシャンと共に活動している。2人の作品には、デレク・アンド・ザ・ドミノス時代の曲の再演が収録された『Other Assorted Love Songs, Live from Whitney Chapel』 (2003年) がある。
経歴
1965-68年(初期の活動)メンフィスにあるスタックス・ミュージアム。ウィットロックが10代に過ごしたスタックス・スタジオを再現展示している。「メンフィス・ソウル」も参照

2011年5月のモジョ誌の記事で音楽ジャーナリストのフィル・サトクリフは、ボビー・ウィットロックがメンフィスで生まれ、ハモンドオルガンの演奏を「スタックス・スタジオでブッカー・Tの肩越しに覗き込んで」学んだと記述した[1]。まだ10代のウィットロックは、アルバート・キングサム&デイヴザ・ステイプル・シンガーズブッカー・T&ザ・MG'sなどのスタックス・レコードに関連するミュージシャンと親しくなり[2]、同レーベルと契約した最初の白人アーティストだった[3]。レコーディングへの彼の最初の貢献は、1967年にサム&デイブのシングル「I Thank You」で手拍子を担当したことであった。

1965年から1968年までウィットロックはメンフィスで定期的に演奏を行った。地元バンドのショート・カッツでオルガンを演奏し、その後カウンツを結成した[4]。この期間のメンフィスについて、彼は2010年の自叙伝に次のように書いている[5]

当時は音楽、特にソウルミュージックにとって素晴らしい時間と町だった。それは本当のリズム・アンド・ブルースだった。 アルバート・キングのR&B、それが僕が話していることだ。それはルーズで、あなたが向きを変えたすべての場所の音楽についてだった。

スティーヴ・クロッパーなどの定評のあるスタックスのミュージシャン[6]と、ドナルド・ダック・ダンとドン・ニックスがスタックスのサブレーベルでウィットロックのポップアルバムを制作する準備をしていたが、彼はデラニーとボニー・ブラムレットに会った後、メンフィスを離れた[7]。彼はブラムレットがロサンゼルスで結成していたソウルレヴューバンドに彼を招待したとき、彼がカウンツと一緒にクラブで演奏していたことを思い出した[8][9]
1968-70年(デラニー&ボニー)詳細は「デラニー&ボニー」を参照


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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