ボナヴェントゥラ
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ボナヴェントゥラ
枢機卿
ボナヴェントゥラ(画:フランシスコ・デ・スルバラン
聖職
枢機卿任命1273年6月3日
個人情報
本名ジョヴァンニ・デ・フィデンツァ
出生1221年?
トスカーナ州
バニョレア
死去1274年7月15日
フランス王国
リヨン
聖人
記念日7月15日
崇敬教派カトリック教会
称号教会博士
列聖1482年4月14日
列聖決定者シクストゥス4世
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ボナヴェントゥラ(Bonaventura, 1221年? - 1274年7月15日)は、13世紀イタリア神学者枢機卿フランシスコ会総長。本名ジョヴァンニ・デ・フィデンツァ。トマス・アクィナスと同時代の人物で、当代の二大神学者と並び称された。フランシスコ会学派を代表する人物の一人で、当時の流行だったアリストテレス思想の受容には批判的であった。カトリック教会聖人
生涯

ボナヴェントゥラはトスカーナのバニョレア(現在のバニョレージョ)で生まれ、長じて修道院に入ることをあらかじめ母親に定められていた。伝説ではアッシジのフランチェスコによる奇跡的な治癒を受け、彼にちなんでボナヴェントゥラという名前を名乗ることになったという。1243年フランシスコ会の修道院に入り、パリでヘイルズのアレクサンデル、およびロケルスのヨハネに学び、その後を継ぐことになった。

若き神学者としてボナヴェントゥラは『命題集』注解で注目され、1255年パリ大学で神学修士号を取得している。パリ大学の教授を経て、1257年に若くしてフランシスコ会総長に選出されたことからも彼の名声がどれほどのものであったかが窺える。総長としてロジャー・ベーコンオックスフォード大学での講義を禁じ、パリにおいて軟禁状態に置いたのもボナヴェントゥラであった。彼はやがて教皇グレゴリウス10世の選出に貢献した功によって同教皇の手で枢機卿にあげられ、アルバーノ司教とされた。1274年には当代切っての大神学者としてトマス・アクィナスと共に第2リヨン公会議に招聘され、そこで活躍したが、同地で死去した。

ボナヴェントゥラは同時代の人々から「熾天使的博士」(Doctor Seraphicus)と称されたが、真にその名にふさわしい人物であったかどうかはわからない。さらにボナヴェントゥラの歴史における位置づけはダンテ・アリギエーリの『神曲』天国篇において決定的なものとなる。ボナヴェントゥラは1482年に教皇シクストゥス4世によって列聖され、1587年には教皇シクストゥス5世によって教会博士にあげられている。
ボナヴェントゥラの著作

リヨン版として集成された彼の著作集は、最初の三巻に聖書の注解と説教集が、次の二巻に中世の神学者たちから最高の注解と賞賛されたペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』への注解が含まれ、最後の二巻にそれ以外の業績がおさめられている。その中には『大伝記』と称されるアッシジのフランチェスコの伝記[1]も含まれている。ボナヴェントゥラのもっとも優れた業績といわれるのは「それ以外」に分類される著作である。たとえばもっとも有名な『精神の神への道程』をはじめとして『ブレヴィロクイウム』、『諸学芸の神学への還元』、『ソリロクィウム』、『七つの永遠なる遍歴』(De septem itineribus aeternitatis)などがおさめられている。
ボナヴェントゥラの思想Legenda maior, 1477

ボナヴェントゥラの哲学者としての姿勢は同時代のもう一方の雄であるトマス・アクィナスやロジャー・ベーコンとは際立った対称性を示している。それはアクィナスらが、きわめて初歩的なものながら科学的思考をとりいれ、アリストテレスの思想にもとづくスコラ学を完成させたのに対し、ボナヴェントゥラのスタイルは神秘主義的でプラトン的思考スタイルを示すということにある。これは系統的にはサン・ヴィクトルのフーゴー、サン・ヴィクトルのリカルドゥス、クレルヴォーのベルナルドゥスといった人々に属している。彼の思想には純粋知性というものがないわけではないが、それほど重要なものでなく、それより生の力や愛情といったもののほうが重視されているのである。彼はアリストテレスへの傾倒に批判的であり、異端的なものが含まれていると考えていた。実際に世界の永遠性に関してアリストテレス思想の影響を受けていた枢機卿たちと激しい論戦を繰り広げている。だが、ここで気をつけないといけないのは、彼が影響を受けたプラトン思想は、原典にもとづいたプラトン思想ではなく、あくまでアウグスティヌス理解によるプラトンであったこと、あるいはアレクサンドリア学派に由来し、偽ディオニシウス・アレオパギタの理解によるプラトンであったということであった。

ボナヴェントゥラの理解したプラトン思想はイデアが自然物の中には存在しないが、実体はイデア(創造者たる神の御心)にそってつくられているというものであった。他のスコラ哲学の研究者たちと同様、ボナヴェントゥラはまず理性と信仰の関係という問題から検討を始めた。


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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
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