「ボスニア」のその他の用法については「ボスニア (曖昧さ回避)」をご覧ください。
ボスニア (Bosnia) とヘルツェゴビナ (Herzegovina) の大まかな地域範囲図
ボスニア (Bosnia) は、 ボスニアという名前は、この地を流れるボスナ川に由来する。セルビア語、ボスニア語、クロアチア語ではボスナ(Босна、Bosna)。
ヘルツェゴビナと対を成し、ボスニア・ヘルツェゴビナの北部を占める地域の歴史的名称。本項で記述。
「ボスニア・ヘルツェゴビナ」全体に対する略称・俗称。
名称
歴史詳細は「ボスニア・ヘルツェゴビナの歴史(英語版
先史時代詳細は「先史時代のバルカン半島(英語版
Badanj Cave(紀元前16,000年 - 12,000年)やDanilo culture(紀元前4700年 ? 3900年)が知られている。
古代詳細は「古代のボスニア・ヘルツェゴビナ(英語版)」を参照「ルサチア文化」も参照
イリュリア人のイリュリアがあったが、共和政ローマによって滅ぼされ、当初はイリュリア属州(紀元前167年 - 10年)が置かれたが、皇帝属州ダルマチア(紀元前32年 - 6世紀)と皇帝属州パンノニアが分割された。ローマ帝国が東西に分裂した後、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世が没すると、スラヴ人が侵入を開始した。
中世詳細は「中世のボスニア・ヘルツェゴビナ(英語版)」を参照
6世紀末から7世紀にかけて現在の住人の祖先にあたるスラヴ人が定住した。Bosanska kne?evina(600年 ? 1137年)。
12世紀以降ボスニアはハンガリーの支配下に入るが、ハンガリーの支配は名目的で、実際にはボスニアの貴族が太守や総督を意味する「バン」という称号を名乗り支配していた(バンによるボスニア統治時代)。1322年にバンとなったスチェパン・コトロマニッチ(英語版)の時代にはヘルツェゴヴィナをその版図に収めた。
14世紀後半のスチェパン・トヴルトコ1世(英語版)の時代に最盛期を迎えると、1377年には称号もそれまでの「バン」から「王」へと改め、名実ともに王国となった(ボスニア王国、1377年 - 1463年)。
オスマン帝国詳細は「オスマン帝国期のボスニア・ヘルツェゴビナ(英語版)」を参照
ボスニア王国は1428年にオスマン帝国の属国となり、1463年には国王スチェパン・トマシェヴィチが廃されオスマン帝国の直接支配を受けるようになる。オスマン帝国時代にはこの地域は、ボスニア州(英語版)(1580年 ? 1867年、首府はトラヴニク)やボスニア州(英語版)(1867年 ? 1908年)とされており、近隣のヘルツェゴヴィナ州(英語版)(1833年 ? 1851年)、ズヴォルニク県(英語版)と共に一つの州を形成していた。ボスニアではかつてキリスト教ボゴミル派の信仰が盛んであったが、オスマン帝国による統治のもとで徐々にイスラームへの改宗者が増え、現在ボシュニャク(サンジャクも参照)と呼ばれる集団の原型が形成されることとなった(ただし、ボゴミル派の信者のすべてがムスリムになったわけではなく、正教会やカトリック教会へ宗旨替えをする者も相当数存在したといわれる。結果、現在ではボスニアにおけるボゴミル派信仰は消滅している)。
長年にわたるオスマン帝国による統治が多くの改宗者を生む一方で、ボスニアには正教徒やカトリックのキリスト教徒も多く存在し、またユダヤ教徒のコミュニティも存在していた。社会階層としてはムスリム(イスラム教徒)は地主に多く、キリスト教徒は小作人に多かったといわれる。このように各宗教が混在した状況ではあったが、オスマン帝国支配下では宗教別の共同体(ミッレト)による自治が認められていたこともあり、宗教的な対立は比較的少なく、各宗教は共存関係にあった。ただし、地主と小作人の経済的な対立が宗教対立に変化することはあった。
ナポレオン戦争期になると、1804年にスメデレヴォ・サンジャク(セルビア語版、英語版)(現代の中央セルビア(英語版))で第一次セルビア蜂起(英語版)が勃発。1809年にグラディシュカ地域でボスニア州(英語版)(1580年 ? 1867年)の反オスマン帝国蜂起のヤンチッチの反乱(セルビア語版、英語版)(セルビア語: Маши?ка буна)が起こり、経済や宗教などセルビア人の権利ははく奪された。1831年にボスニア蜂起(英語版)(1831年 ? 1833年)と呼ばれる大規模な反乱が発生している。
1875年にヘルツェゴヴィナ蜂起が勃発し、それに引き続くモンテネグロ・オスマン戦争(英語版)と露土戦争の結果締結されたサン・ステファノ条約では、ボスニアに自治権が付与されたものの、その後のベルリン会議によって、モンテネグロ公国やセルビア王国の独立が認められた一方で、オーストリア・ハンガリー帝国が共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナ(Condominium of Bosnia and Herzegovina、1878年 - 1918年)を軍事占領することとなった。占領当初、ムスリムを主体とする大規模な抵抗が起きたが、占領軍は1878年末までにこれを鎮圧した。これにより1878年以降はオスマン帝国の名目上の主権のもと、オーストリア・ハンガリー帝国が施政権を行使する体制が1908年まで続くが、地域内に多くのセルビア人が居住することを理由にセルビア王国はボスニアにおける領有権を主張し続けていた。
オーストリア・ハンガリーによる併合詳細は「ボスニア危機」および「ボスニア・ヘルツェゴビナ併合」を参照
オーストリア・ハンガリー帝国の占領下の共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナは帝国の大蔵大臣(共通蔵相)の管轄下に置かれ、ムスリム地主の勢力を温存する政策が採られた。1908年10月6日、共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナはヘルツェゴビナと共に正式にオーストリア・ハンガリー帝国に併合された(ボスニア・ヘルツェゴビナ併合)。併合後も占領時代同様にオーストリアにもハンガリーにも属さず、共通蔵相の管轄下に置かれていたものの、1910年には帝国内の他地域と同様に憲法が適用されるようになり、選挙も行われた。
バルカン戦争(1912年 - 1913年)が勃発し、これ以後第一次世界大戦にかけてムスリムがオスマン帝国領に移住する「Muhacir問題」が起こった。また、戦後には、セルビア人のナショナリズムが高揚した。青年ボスニア党(英語版)(ボスニア語: Mlada Bosna ムラダ・ボスナ)のガヴリロ・プリンツィプがサラエボ事件(1914年)を起こして第一次世界大戦が勃発した。 こうして各宗教がそれぞれに政治組織を結成し、宗教に基づいた民族意識の形成が進みつつある中で、ボスニアの領有権を巡るオーストリア・セルビア間の紛争が第一次世界大戦へと発展、やがて敗北したオーストリア・ハンガリー帝国はその崩壊を迎え、1918年10月29日には戦後新たに「スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国」(旧セルビア王国)が成立し、1918年12月1日にその版図にクロアチア=スラヴォニア王国やダルマチア王国とともに共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナも組み込まれて、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1918年 - 1943年、1929年からユーゴスラビア王国)が誕生した。
第一次世界大戦