艦歴
発注
起工1941年6月30日
進水1942年8月26日
就役1943年6月30日
退役1970年5月5日
除籍1975年
その後1975年にスクラップとして売却
性能諸元
排水量13,600トン
全長673 ft 3 in (205.2m)
全幅71 ft 10 in (21.9m)
吃水26 ft 10 in (8.2m)
速度33ノット (61 km/h)
乗員1,142名(士官含む)
兵装
就役時20.3cm (8"/55)砲9門
12.7cm (5"/38)砲12門
兵装
改装後20.3cm (8"/55)砲6門
12.7cm (5"/38)砲10門
7.6cm (3"/50)砲12門
テリアミサイルランチャー2連装2基
ボストン (USS Boston, CA-69/CAG-1) はアメリカ海軍の重巡洋艦。ボルチモア級重巡洋艦の2番艦。艦名はマサチューセッツ州ボストンに由来し、その名を持つ艦としては6隻目。 ボストンは1942年8月26日、マサチューセッツ州クインシーのベスレヘム・スチール、フォアリバー造船所で起工。ボストン市長のモーリス・J・トビン夫人の手によって進水、1943年6月30日にJ・H・カーソン艦長の指揮下就役する。 ボストンは太平洋艦隊に編入され、1943年12月6日に真珠湾に到着した。同年1月に第58任務部隊に加わって、1944年1月31日から2月28日にかけてマーシャル諸島攻略に参加、クェゼリン環礁、マジュロ環礁、エニウェトク環礁の上陸を支援した。同任務部隊はパラオ諸島、西部カロリン諸島を空襲(3月30日?4月1日)、次いでホーランディアを含む西部ニューギニア(4月21日?24日)、トラック諸島(4月29日?5月1日)、硫黄島(7月3日?4日)を攻撃した。また、マリアナ沖海戦(フィリピン海海戦)に参加した後も2回に亘って(6月24日?26日、7月3日?4日)硫黄島の空襲を支援し、グアム島上陸支援(7月12日?8月15日)、パラオ・ヤップ島・ウルシー環礁空襲支援(7月25日?27日)、モロタイ島上陸支援(9月15日)、南部パラオ諸島上陸支援(9月6日?10月14日)、フィリピン諸島空襲支援(9月9日?24日)などに従事した。 その後、第38任務部隊に加わって10月10日に行われた沖縄空襲支援を手始めに、10月11日から14日にかけてルソン島北部と台湾の空襲を支援し、10月15日、10月24日?26日、11月13日?14日、11月19日?20日の4回に亘ってルソン島空襲を支援し、レイテ沖海戦(レイテ湾海戦)に参加した。同任務部隊が日本海軍を退けると台湾空襲支援(1945年1月3日?4日、9日、15日、21日)、ルソン島空襲支援(同月6日?7日)、中国沿岸空襲支援(1月12日、16日)、九州と南西諸島の空襲支援(1月22日、2月15日?16日、3月1日)に従事した。 その後ボストンはオーバーホールのため1945年3月25日にカリフォルニア州ロングビーチに到着する。オーバーホールが完了すると、真珠湾、エニウェトク経由で太平洋西部へ戻り、日本本土攻撃を行う第38任務部隊に合流する。部隊は7月20日から8月15日にかけて攻撃を行い、8月9日には釜石へ砲撃を行った。日本の降伏後は占領任務に従事し1946年2月28日まで留まる。その後本国に帰還し、1946年3月12日にピュージェット・サウンド海軍造船所で予備役となる。 ボストンは1952年1月4日に CAG-1(ミサイル巡洋艦)へ艦種変更される。1952年2月にワシントン州ブレマートンからフィラデルフィアへ曳航され、ニュージャージー州カムデンのニューヨーク造船所でミサイル巡洋艦への改装が行われる。この改装で後部8インチ砲塔は撤去され、対空ミサイルランチャーが取り付けられると同時に他の装備も近代化された。ボストンは1955年11月1日にボストン級ミサイル巡洋艦の1番艦として再就役し、東海岸沿いおよびカリブ海でミサイルの運用評価、艦隊演習を行う。その後地中海に向けて1956年11月23日出航し、1957年5月に帰還する。 夏には海軍兵学校生を乗艦させ、南アメリカへの巡航を行った後北大西洋でNATOの演習に参加、オーバーホール後にボストンは1958年6月から9月にかけて、二度目の第6艦隊での巡航を行う。
艦歴
第二次世界大戦
再就役改装後のボストンに設置された、艦後部のテリア対空ミサイルのランチャーと誘導用レーダーイルミネーター