ボストン虐殺事件
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ボストン虐殺事件
Boston Massacre
『血まみれの虐殺(The Bloody Massacre)』と題されたポール・リビアによる1770年の版画(クリスチャン・レミックによる手彩色版)。
日時1770年3月5日
場所ボストン
原因

タウンゼンド諸法

イギリス軍のボストン駐屯

クリストファー・サイダー殺害と犯人への恩赦

結果植民地人5名を殺害

被告

トマス・プレストン(英語版)

ウィリアム・ウェムズ

ヒュー・モンゴメリー

ジョン・キャロル

ウィリアム・マッコーリー

ウィリアム・ウォーレン

マシュー・キルロイ(英語版)

市民4名

有罪判決を
受けた人モンゴメリー、キルロイ
罪状殺人罪
評決モンゴメリーとキルロイの2名については故殺罪で有罪とし、残りの者については無罪
判決モンゴメリーとキルロイの2名に対して親指への烙印

参加集団

第29連隊植民地人の暴徒

指導者

トマス・プレストン大尉なし

人数

8人300-400人

死傷者数

軽傷11名負傷(うち5名死亡)

ボストン虐殺事件(ボストンぎゃくさつじけん、英:Boston Massacre)は、1770年3月5日にイギリス領マサチューセッツ湾直轄植民地(現アメリカ合衆国マサチューセッツ州)のボストンにおいてイギリス駐屯軍の部隊8名と、約300名から400名になる市民が衝突し、群衆側の投石などに対してイギリス兵が発砲して市民5名を射殺した事件。この一件をポール・リビアサミュエル・アダムズといった植民地の自治権を求める者たち(パトリオット)が「虐殺(massacre)」と呼称して大きく報じたため、この名前で呼ばれる。イギリス側は事件が発生した地名からキング・ストリート事件(キング・ストリートじけん、英:Incident on King Street)と呼ぶ[1]

1767年にイギリス本国議会(グレートブリテン議会(英語版))で制定されたタウンゼンド諸法はアメリカ植民地で自治権を侵害するものとして強い反発を招き、これに対してイギリスは1768年よりマサチューセッツ湾直轄植民地に王室から任命された政府役人の警護や、同法の執行支援のため、イギリス軍を駐屯させていた。このため市民と駐屯兵の関係が緊迫する中で、些細な諍いをきっかけに、暴徒化した群衆が数人の兵士を取り囲み、罵倒したり、石や氷塊を投げつけた。トマス・プレストン大尉率いる6名の兵士が救援にかけつけたが、事態は収拾せず、そのうち、1名の兵士による不意の発砲により、プレストンの発砲命令なく他の兵士たちも次々に群衆に発砲した。この銃撃で3名が即死、8名が負傷し、うち2人がその後亡くなった。

代理総督のトマス・ハッチンソンが捜査を約束したことで群衆は解散し、翌朝にはプレストンと8名の兵士が逮捕されたが反イギリス感情の高まりから、最終的に軍はキャッスル島に退避せざるを得なかった。その後、プレストンら9名と民間人4名が殺人罪で起訴されたが、裁判は時間による沈静化を狙ったハッチンソンにより、半年以上経ってから行われた。この裁判では後の合衆国大統領ジョン・アダムズが被告人の弁護を担い、プレストンと兵士6名は無罪、兵士2名は故殺罪(英語版)で有罪となった。また、有罪となった2名は本来は死刑であったが、当時の法慣習によって減刑され、親指への烙印の罰となった。

この事件は自治独立を志向する著名な愛国派(パトリオット)が、「虐殺(massacre)」という言葉を用いるなど、時に誇張も伴って植民地社会に喧伝され、イギリス本国と13植民地全体との緊張を高めた。特にリビアが制作した色刷りの版画が知られる。事件の結果、タウンゼンド諸法が一部撤廃されるなどしたが、本国と植民地の溝は埋まらず、その後もガスピー号事件(英語版)やボストン茶会事件などが起こり、最終的に1775年のアメリカ独立戦争に至ることになる。
背景詳細は「アメリカ合衆国の独立」を参照

イギリス領マサチューセッツ湾直轄植民地の首都であるボストンは、アメリカ植民地(13植民地)における重要な海運都市であると同時に、1760年代にはイギリス本国議会による課税に対する抵抗運動(代表なくして課税なし)の中心地でもあった。1768年、イギリス本国議会はイギリスからアメリカ植民地に輸入される様々な物品に対して関税を掛けるタウンゼンド諸法を可決した。これに対し、植民地人たちは、イギリス臣民としての自然権、植民地憲章、憲法上の権利を侵害するものとして反発した[2]。マサチューセッツ植民地議会は、国王ジョージ3世にタウンゼンド諸法の1つである歳入法の停止を求める請願書を送付し、反対運動を開始した。また議会は他の植民地議会にも「マサチューセッツ回状(英語版)」と呼ばれる書簡を送って抗議活動への参加を求め[2]、特に対象輸入品を扱う輸入商のボイコットを呼びかけた[3]

新設されたばかりの植民地大臣に任用されたヒルズバラ伯爵は、マサチューセッツの行動を危険視した。1768年4月、彼はアメリカの植民地総督らに手紙を送り、マサチューセッツ回状に応じた植民地議会を解散させるよう指示した。また、マサチューセッツ植民地総督のフランシス・バーナードには、議会に回状の撤回を命じるよう指示した。しかし議会はこれに応じることを拒否した[4]

ボストン税関長のチャールズ・パクストンは「印紙法の時と同様に政府は国民の手に委ねられている」として、ヒルズバラ卿に軍事支援を求める手紙を出した[5]サミュエル・フッド提督は、50門の大砲を備えた軍艦ロムニー号を派遣し、これは1768年5月にボストン港に到着してパクストンの要請に応えた[6]。6月10日、税関は、密輸に関与していたとして、ボストンの有力商人ジョン・ハンコックが所有していたスループ船リバティ号を押収した。元よりロムニー号の艦長が地元の船員たちを抑圧していたことも手伝って、ボストン市民の怒りは限界に達して暴動が起こり[7]、税関職員はマサチューセッツ湾上にあるキャッスル島の要塞キャッスル・ウィリアムに避難した[8]

こうしたマサチューセッツの情勢不安に対し、ヒルズバラ卿は北アメリカ最高司令官(英語版)トマス・ゲイジ将軍に「ボストンに必要と思われる軍隊」を送るよう指示して4個連隊が派遣されることが決定し[9]、その最初の部隊は1768年10月1日にボストンに到着した[10]。1769年に2個連隊はボストンから撤兵したが、第14連隊と第29連隊はそのまま駐屯することとなった[11]

『ジャーナル・オブ・アカーランス(英語版)』は、ボストン市民と兵士の衝突を記録した一連の新聞の匿名記事において、時に誇張された内容で緊張を煽ったが、1770年2月22日に発生した「約11歳の若者」クリストファー・サイダー(英語版)が税関職員に殺されたという報道の後は、さらに顕著に緊張が高まった[11]。サイダーの死は『ボストン・ガゼット(英語版)』紙で取り上げられ、彼の葬儀は、ボストンで当時最大規模で行われたとある。この事件とその後の報道は緊張を煽り、植民地主義者は嫌がらせ目的で兵士を探し、兵士の方も対立を求めていた[12]
事件1713年から1776年まで使用されていた旧マサチューセッツ州会議事堂の正面写真。手前下の円形の石畳部分には「ボストン虐殺事件跡地」と書かれているが、実際に事件が起きたのは、この近くの通りである。

3月5日の晩、キング・ストリート(現在のステート・ストリート)にあるボストン税関(英語版)で、屋外警備にあたっていたジョン・ゴールドフィンチ大尉とヒュー・ホワイト一等兵は、エドワード・ギャリック(英語版)という名の13歳のかつら屋の見習い少年からちょっかいを掛けられた。それはゴールドフィンチがギャリックが雇われている店への代金を踏み倒そうとしているという批難であったが[13]、実際には前日に支払いを済ませており、ゴールドフィンチはこの侮辱を無視した[14]。見かねたホワイトがギャリックに将校にはもっと敬意を払うべきだと呼びかけたところ、2人は互いに侮辱しあって口論となった。そしてギャリックは指でゴールドフィンチの胸を突き始めた。ここでホワイトは持ち場を離れると少年を挑発し、マスケット銃で彼の側頭部を殴打した。


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