ボストン茶会事件
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ボストン茶会事件
ボストン茶会事件を描いたリトグラフ
日時1773年12月16日
場所 イギリス
マサチューセッツ湾直轄植民地ボストン
原因茶法の制定
目的イギリス議会による茶葉への課税に対する抗議(代表なくして課税なし)。
手段積荷の茶葉を海に投棄
結果耐え難き諸法の制定による自治権の剥奪
参加集団

自由の息子達 イギリス


東インド会社

グレートブリテン議会(英語版)


指導者



サミュエル・アダムズ

ポール・リビア

ウィリアム・モリニュー(英語版)


トマス・ハッチンソン


ボストン茶会事件(ボストンちゃかいじけん、: The Boston Tea Party)は、1773年12月16日にイギリス領マサチューセッツ湾直轄植民地(現アメリカ合衆国マサチューセッツ州)のボストンにおいて、植民地人の急進派イギリス本国議会(グレートブリテン議会(英語版))に対する抗議として停泊中の船舶から積荷の茶箱を海に大量投棄した事件。アメリカ史において、後のアメリカ独立戦争への転機になった出来事と評される。

発端は1773年5月10日にイギリス議会で制定された茶法であった。この法律はイギリス東インド会社がアメリカ植民地で中国産の茶葉を直接販売するにあたって、販売独占権が与えられると共に、植民地に課せられたタウンゼンド諸法に基づく関税の実質的な免税を受けるものであった。この処置は植民地に正規輸入された茶葉の値段を押し下げる効果をもたらすものであったが、植民地ではもともとタウンゼンド諸法は自分たちの課税権を侵害するものと強く反対されており、茶法に対する抗議活動が盛んになった。植民地全体で茶葉の荷揚げを防止するといった抗議活動が盛んになる中で、マサチューセッツのみ、同地のトマス・ハッチンソン総督が荷揚げを許可したことにより、ボストン港には東インド会社の茶葉を積んだ船舶が停泊していた。こうした中にあって同地の急進派「自由の息子達(サンズ・オブ・リバティ)」はインディアンを装ってその船舶に侵入すると、積荷の茶箱をすべて海に投げ捨てた。

ボストン茶会事件は、茶法に対する反対運動の集大成であり、「代表なくして課税なし」を代表するものであった。一方のイギリス政府は、これに強力に対応し、翌1774年にいわゆる「耐え難き諸法」を制定してボストン港を閉鎖すると共に、マサチューセッツ湾植民地の自治権を奪った。この処置は他の植民地政府への見せしめ的な要素も帯びていたが、結果として13植民地の強い反発と連携を生み、第1回大陸会議の実施に至った。そして二年後1775年にボストン近郊での戦闘(レキシントン・コンコードの戦い)をきっかけにアメリカ独立戦争が勃発することになる。

なお、事件当時は、単に「茶葉の破壊」(destruction of the tea)と呼ばれ、その後も長らく大きく扱われない故事であったが、歴史家のアルフレッド・ヤング(英語版)によれば、1834年に初めて "Boston Tea Party" という言葉が印刷物に登場したという。"Party" には日本語の「会」と同じく「党」や「集団」という意味もあるが、少なくとも事件当時において "Tea Party"(直訳で「茶党」)と名乗る集団がいたわけではない。現代でも政府の権限や在り方に対する抗議者がティーパーティー(Tea Party)を引用したり、名乗る例があり、2000年代後半においてはリバタリアニズムに基づく政治運動において、ティーパーティーを標榜するものが起こった(ティーパーティー運動)。
背景・前史

ボストン茶会事件に至る経緯は、1765年に大英帝国が直面した2つの問題に端を発する。すなわち、イギリス東インド会社の財政問題と、選挙で選ばれた代表が不在のイギリス領アメリカ植民地に対する議会の権限範囲の問題である。これらを解決しようとしたノース内閣は、最終的にアメリカ独立戦争に繋がる植民地社会との政治抗争を繰り広げた[1]
茶葉貿易における東インド会社の財政問題

17世紀にヨーロッパで喫茶の習慣が確立すると中国から茶葉を輸入する競合企業が設立されるようになった[2]。イギリスでは1698年に、東インド会社に輸入独占権を与えることが議会で決まった[3]。イギリスの植民地で喫茶が普及すると、1721年に議会は植民地に対して茶葉の輸入をイギリス本国のみに要求する法案を制定し、競争相手の外国勢力を排除しようとした[4]。当時、東インド会社は、輸入した茶葉を植民地に直接販売することはできず、イギリス本国内での競りに出すことが義務付けられていた。このため正規のイギリス植民地で流通する茶葉は、イギリスの本国市場から茶葉を購入した仲買人が、それを植民地に輸出し、ボストン、ニューヨークフィラデルフィアチャールストンの商人たちに転売する、というビジネス慣行で成り立っていた[5]

1767年まで、東インド会社はイギリスに輸入する茶葉に対して約25%の従価税が課せられていた[6]。その上で議会は、イギリスで消費・販売される茶葉にさらなる追加税を課した。この結果、このような課税がなかったオランダの輸入茶葉は、イギリスのそれよりはるかに安かった。このため、イギリスの本国人や植民地人による密輸入が横行した[7]。違法茶葉の最大市場はイギリスであったが、植民地にも相当量が流入していた[8]。1760年代までに東インド会社が被った損失は年40万ポンドに上っていた[9]

1767年、議会は東インド会社に競争力を持たせるために補償法を可決し、イギリス本国内で消費される茶に課せられる税を引き下げると共に、東インド会社が植民地に再輸出した際に掛かる25%の関税を還付すること(実質的に関税を撤廃すること)を決めた[10]。同時に、この処置によって生じる政府歳入の損失を相殺するための歳入法も可決し、茶葉を含んで植民地に対する新たな税を課した[11]。これら1767年に成立した複数の法律を、主導した財務大臣チャールズ・タウンゼンドにちなみ「タウンゼンド諸法」と呼ぶ。
タウンゼンド諸法に対する反発詳細は「タウンゼンド諸法」を参照

1760年代、議会が歳入を増やす目的で植民地に初めて直接税を課そうとしたことで、イギリス本国と植民地との間で論争が起こった。古くからイギリスでは、税制を決めることができるのは自らの代表(英語版)(代議士)が参加している議会によってのみ可能という考えがあり、これは憲法で保障されていると認識されていた(代表なくして課税なし)。しかし、イギリス本国議会には植民地に選挙区が割り当てられておらず、よって植民地人が選んだ代表(代議士)が存在しなかった。このため、一部の植民地人たち(植民地ではホイッグ党と呼ばれ、後の独立戦争でパトリオットと呼ばれた者たち))は、イギリス議会で制定された新しい税制が英国憲法に違反するとし、植民地に対する課税権を持つのは、植民地人によって選ばれた現地の植民地議会のみであるとした。こうした植民地の抗議によって1766年の印紙法は撤廃に追い込まれたが、議会は同時に宣言法(英語版)(Declaratory Act)を制定し、「いかなる場合においても」議会は植民地に対する統治権を有すると宣言した。

1767年にタウンゼンド諸法によって新たな課税が決まった時、ホイッグ党の植民地人たちは再び抗議とボイコットで対抗した。商人たちは非輸入協定を結成し、多くの植民地人はイギリスからの紅茶を飲まないことを誓い、ニューイングランドの活動家は植民地産のラブラドール茶(英語版)(ラブラドール地方に由来する野草を使ったハーブティー)などの代替品を推奨した[12]。密輸もまた速やかに継続された。これは元来ボストンよりも密輸が盛んであったニューヨークとフィラデルフィアで行われていた。しかし、マサチューセッツでは、現地のホイッグ党の圧力によって非輸入協定の遵守が強いられるまで、リチャード・クラーク(英語版)やマサチューセッツ植民地総督トマス・ハッチンソンの息子たちらによってボストンに義務付けられたイギリス紅茶の輸入が続けられていた[13]


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